放蕩息子①

次男が自分の取り分を生前贈与してもらって街へ行き、放蕩をして一文無しになる。働き口を見つけるが、豚飼いであり、豚は穢れた生き物とするユダヤ人には耐えがたい仕事だった。その上、空腹に襲われて「豚のエサ」を食べようとさえ思った時に、「天に対しても、父に対しても罪を犯した」と悔い改めて、家に帰る。父はそんな次男を喜んで迎えて、パーティーを開く。ハイジのおじいさんのオンジが悔い改めた時の感動的な聖書のお話だ。
ここで問題は、放蕩を尽くしたという次男はいったい何の『罪』を犯したのか?「天に対しても、父に対しても」どんな『罪』を犯したのか?
聖書が扱う『罪』は『犯罪』という意味ではない。次男は自分のお金で好きなように遊んだだけだ。もし、罪と言うなら、この「自分の好きなように遊んだこと=放蕩」そのものになる。
『放蕩』とは「酒や女に溺れること」を意味しているらしい。どうして、酒や女に溺れてはいけないのか。
これを定めているのは神様だろう。神様が人間を創った時に、人間に求めたものは、「自分のようになって、互いに愛し合う者になってほしい」だったのだと思う。これは普通の親が、子どもが生まれた時に思うのと同じようなことだろう。父も次男にそれを願ったと考えられる。
つまり、『罪』とは、「良き人となり、良く人生を生きる努力をし、周りにいる人たちと共に平和で幸せな人生を生きてほしい」という神様や親や周りの人たちの願いや思いを踏みにじることだろう。
その中で、「神様の願い」が一番大切だろう。親や周りの人や、民族や共同体や国家であっても、間違えていることがある。宗教も正しく「神様の願い」を理解し、伝えていないこともある。
だから、正しい「神様の願い」そのものが、一番大切なものになると思う。

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