「信仰義認」という言葉によって、代表される宗教改革。でも、なんのことかわからない。その根拠になった御言葉が以下のものです。
【新改訳2017】ローマ人への手紙
1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
プロテスタント教会の中心的なテーマとされるが、実際は「わかったようなわからないような」感じ。
でも、こう考えてみてみてください。
ツラい思いをしたり、苦しい思いをしたりした時に、それでも、「ちゃんと(正しく)生きよう」と思うとしたら、その思いの根元にあるものは何でしょうか?
「両親に迷惑をかけたくない」「両親を悲しませたくない」「家族を苦しめたくない」「正しく生きることがとにかく大切だ」等など。
それらは、「正しく生きる」ことによって、「良い結果(報い)」があると思っているからではないでしょうか。
「悪いこと」をしても、「得をする」とか「いい思いができる」と考えたら、悪いことをするのではないでしょうか。でも、その先のことを考えて、「悪いことをしていい思いをしても絶対に悪い報いが来る」と考えると、やはり悪いことはできない、と思うのでは。
では、どうして、「悪いことをしたら、必ず悪い報いが来る」と思うのでしょうか。
それが、「信仰」です。「信仰」は「良いことをしたら、必ず良い報いが来る」と信じることです。その逆の「悪いことをしたら、必ず悪い報いが来る」と信じることも同じです。
「家族を悲しませたくない」という身近なことでもいいです。「情けは人のためならず」でもいいです。
「よいことをすれば、必ずいいことがある」「たとえ、今ツラい状態でも、必ず幸せになれる」という思いこそが信仰であり、その信仰は「希望」です。
その信仰の根拠が「神様の存在」です。「悪魔」が絶対者(王)だったら、何をやっても絶望と不幸でしょう。
「義人は信仰によって生きる」とは、「正しく生きる人は、必ず『正しい報いがある』と信じる人」というくらいの意味だと思います。
「たとえ、この世をおもしろおかしく生きても、死後に地獄で、永遠の苦しみに遭う」と思うことでも、いいと思います。
そう信じることで、あなたは『救われて』いる思いませんか。
「信仰によって救われる」とは、そういうことだと思います。
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