私にも、恩師と言える先生が何人かいる。その中で、高校時代に英語を教えてくださった村上先生を忘れることができない。村上先生は一年生の時から三年間英語の先生をしてくださり、三年生の時には担任まで引き受けてくださった。私も中学校の先生をしたことがあるから、担任の先生は生徒を選ぶことができることを知った。つまり、村上先生は、私の担任になることを拒否しなかったということだと知った。私は英語が苦手でいつも悪い成績しかとれない劣等生だった。一度自転車通学で、トラックの正面に当たって、右の鎖骨を折り、ギブスを嵌められた。そのギブスのために、右腕を机の上にあげることが出来ず、ノートが取れなかった。仕方がないので、左手でノートを取ることにした。しかし、左手で字を書くのは難しい。それで、右手で書くのと同じように、左手で書くと、英語は右から左へと書くことになった。それが、案外私には容易なことだったので、ずうっとそのようにノートを取った。
英語以外のテストでは、無理矢理右肩を高く上げて、何とか右手で書いたが、英語は左手でノートを取っていたので、左手で書く方が速くて、答案も左手で鏡文字で書いた。
その結果、選択問題の答え「t」だけが、左右対称だったので、〇をもらった。その結果「3点」という、結果だった。私は、鏡文字しか書けなかったのだと抗議したが、「読めない」の一言で終わった。
また、「Chopin」という単語の箇所が当たって、音読させられた時に、随分と悩んだ挙句「チョッピン」と読んだら、「そんな音楽家はいないだろう」と言われた。音楽も苦手だった私は「ショパン」という名前が思いつかなかった。周りでみんなの笑い声が聞こえた。
その村上先生が、三年生の時に担任になった。当然ながら私は絶望した。一番キライな先生が、何で一番大切な高三の担任なのかと思った。
私の席は高校に入ってからほとんどずうっと、教卓の一番近くの右前だった。目が悪かったのもあって、一年生の時にそれを言ったことで、みんなの嫌がるその席が私の定席となっていた。
毎朝夕の学活の時間が苦痛だった。村上先生はいつも私の顔じっと見て、「しっかり勉強してるか?」という顔をしていた。
大学受験で、香川大学に合格したことを伝えるために、学校へ行き、村上先生に会って、直接は報告した。それは、今までバカにして来たと思っていたから、勝ち誇った気持ちで、伝えた。
すると、村上先生はパッと相好を崩して、目に涙を溜めて、「良かった。本当に良かった。よく頑張ったな。」と言って、心から喜んでくださり、褒めてくださつた。
私はその瞬間に、理解した。先生は、高二の時に父を亡くした私を心配して、自分のクラスに入れて、見守り、励まそうとしていてくださったのだと。
私は、本当にバカだったと思う。一番自分のことを思っていてくださった人を、一番嫌っていたのだから。
村上先生、ごめんなさい。そして、本当にありがとうございました。
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