
この本を読んでいると、自分の過去を何度も思い返してしまうようだ。
私は高校一年生の多分一学期の終わり、母と一緒に三者面談を受けた。その時、担任の先生は、「お子さんはとても頑張っています。とても成績が上がっています」と言って、一枚の紙を提示して、絶賛してくれた。その紙には折れ線グラフが描いてあって、確か、中間が290番台で、期末が280番台で、わずかな右上がりの線が引いてあった。自分としては、315人の学年の280番でほぼ最低なのに、先生はどうしてこんなにほめてくれるのかと不思議に思いながらも、「優しい良い先生」だと思った。私はそのグラフを見ながら、先生と母の会話をぼんやりと聞いていた。
その時、ふと、気が付いた。中間と期末の成績を結ぶ線の左に急角度で右上がりになっている線が引いてあることに…。その線の左先にあるものは何だろうと、思った。中間の前に受けた試験…。それは間違いなく「入学試験」だったのではないかと。10番の成績が上がったのような角度ではなく、2、30番上がった線としか思えなかった。つまり、私は高校にほぼドベの成績で入っていたことを知った。
だから、先生は絶賛してくれていたのだと気が付いた。悲しいことに、三原高校と三原東高校は当時総合選抜で、630人の合格者を左右に分けていたので、二校においても自分が、ほぼドベで、ギリギリの成績で通っていたことを知ったことになる。
その私が、何かの間違いで、香川大学の教育学部に入ったというのは、その高校で、国公立合格者は5 名程度だったので、今度はほぼトップになっていたということだった。
そうして、振り返ってみると、この本のチャーリィのように、白痴から天才になったのとは比べものにはならないが、ドベからトップになる過程で様々な軋みがあったことに気が付いた。それは友達の態度の変化だった。一年生の頃、バカにされ、からかわれ、イジメられていたのが、二年生ごろになると無視されるか、暴力的になり、三年生では、ほぼ仲間外れにされていた。
そして、付き合う友達も変わっていった。
今、この本を読んでいて、その頃は自分のことで精いっぱいだったけれど、周りの様子が変わっていったのが、なぜなのかわかる気がする。
自分がバカにしていた人物に、追い越されるということが、いかに人間の心理に影響を与え、暴力的で、冷たいものに変えるのかということを習ったのだと思う。
思い出せば、悲しく、ツラい。そのことが、私の人生にどんな影響を与えているのだろうか。
そして、私をいじめた人たちにどんな影響を与えているのだろうか。
【新改訳2017】ガラテヤ人への手紙
「人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。」
私は、その時は被害者だった。しかし、加害者を私は罰することも、仕返しすることもできない。
でも、「人は自分のやったことは必ず精算させられる」というとは、イヤと言うほど学ばさされた。
ひどいことをした人が、幸せに生きることは基本的にはありえない。そして、この世で、償わなければ、あの世では必ず、そして、もっと厳しく償わさせられる。
コメント