
【新改訳2017】マタイによる福音書
5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」
山上の垂訓と呼ばれたり、特に「幸いです」のあるものを「八福の教え」と呼んだりする。マタイによる福音書の五章から始まる。その第一番目の教えが、この言葉である。イエス様自身がこの順番で話したかどうかはわからないけれど、マタイは一番めに置いた。とても印象深く、意味の深いものである。
そもそも、『心』を取り扱っていることがうれしい。私が子どもの頃には「心理カウンセラー」など存在しない時代だったし、戦争によるトラウマなども取り上げられることもなかった。
「滅私奉公」という言葉が代表するように、自分を思いを殺し、考えないように、思わないようにするように言われた。「男は生きているうちに泣いていいのは二回だけだ。赤ちゃんの時と母親が死んだときだけだ」というようなことを叩きこまれ、「我慢」が「頑張れ」になって、連呼された。
そんな日本の2000年近く前に、『心』のことが語られていた。いろんな人が色んな説明をしてくれるので、私は私の思うことを書かせて頂きたい。間の説明はできるだけ省略させて頂きます。
「心が貧しい」とは、「誰かを愛している」という意味だと思う。衣食住が落ち着いて、安定して、或いは余裕を持っていて、もう十分に満足できる状態にあったとしても、もし「何かが足りない」と感じているのなら、きっとその人の「心は貧しい」ままなのだと思う。お祈りをする時、殆どは「自分のため」に祈るだろう。でも、自分のことで祈ることのなくなった人が、もし「誰かのために」祈るなら、その人の心はまだ貧しいままなのだと、わかる。そして、その祈りや思いが、「知らない誰か」だったり、「困っている誰か」だったり、「不幸せな誰か」だったり、「病んでいる誰か」の「幸せや安らぎ」を求めて祈っているのなら、その人の心はやはり貧しいということがわかる。まだ満足できていないのだから。そして、その貧しい心を満たしてくださるのは、その祈りを確かに聞いてくれている神様を信じることで満たされるのなら、その人の心の中に「神様と神様の国」が来ていることになる。神様の象(かたち)を持って造られた人は、造ってくださった神様の霊(=神様そのもの)によってのみ、その象=心を満たすことができる。
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