
対馬のお寺から仏像が盗まれ、この度返還されると聞いた。何とも、奇妙な話にみえる。
仏教は元々も個人が厳しい修行をして、『悟り』を開くことによって、輪廻の輪から解脱して、『無』となり、消えてなくなって、二度と再び『転生』しないことで、輪廻の『四苦八苦』から解放されるという教えだと、仏教の入門書を繋ぎ合わせて理解すると、そうなる。
そこへ、『大乗仏教』という考え方が入って来て、志しを立てて善行を行って仏になった者の『功徳』で、その阿弥陀菩薩なりを信心することで、『極楽往生』することができると書いてあった。
しかし、『極楽』は『天国』ではなく、『修行の場』でしかない。そこは、この世《現世》とは違い、誘惑や欲深さの無い世界なので、一心に修行を積み、多くの人がうまく成仏できるであろう場所であり、当然不届き者は成仏できずに、転生を繰り返すことになる。
更に、女性の場合は、一度死んで「男に生まれ変わってから」、もう一度、現世から極楽往生を遂げて、初めて成仏のチャンスが与えられる。女は男よりも罪深く、一ランク下なので、男に転生する必要がある。男女差別(区別・格差)が前提である。
大乗仏教は、「簡単に人が救われる」都合の良い方法で、本来のお釈迦様の教えとは異なる。お釈迦様の教えは、やはり厳しく『個人』の修行と悟りが主体であり、人の信仰に「あやかりたい」とか「便乗したい」とかのズルは、通用しない。
京都で「五山送り火(『大文字焼き』と言うと笑われる)」に、『大』の字や『舟形』があるのは、大乗仏教を象徴しているからだそうだ。
しかし、疑問はそんなことではない。「『仏様』は盗まれる」という点だ。文化財的な価値としての「宝物」というのなら、多少の理解もできるが、何かおかしい。
「神様は盗まれない」し、盗みたければ、盗めばいい。しかし、うちの教会には、キリストの像などない。もし、「キリストの像の付いた十字架」に何か意味があるのだと思っているとしたら、「昔のカトリック(今は違うと信じたい)」か「オカルト」か「黒魔術」のようなもので、キリスト教とは関係がない。
金や宝石で作られていても、歴史的文化的な価値しかない。
目に見えず、手で触ることのできない神様を盗むことは、土台無理な話である。
イエス様を盗んで、自分のものにしたいと思うのなら、ただ信じればいい。そうすれば、すぐにあなたのものになります。
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