山上の垂訓②

【新改訳2017】マタイによる福音書
5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるからです。

 「悲しむ者」が幸せとは思えない。それなのに、キリストはそう言った。
 今までにも書いたと思うけれど、私の父は私が高校二年生の時に死んだ。私は「おやじっ子」だったので、喪失感は半端なかった。毎晩誰かが泣いている声が聞こえた。
 私は「悲しい」ということを初めて経験したのかも知れないし、最も強い悲しみを経験したことになるのかも知れない。
 父は十二指腸潰瘍で、手術をして、おそらく手術の失敗で死んだのだろう。担当医は大学を出たばかりの若すぎる医者で、翌日大量の出血をした。
 手術ミス以外の何物でもなかった。それでも、人は死ぬ。どんなに大切な人でも死ぬ。一度死んだら二度と会えない。医者のミスでも、死ぬ。死んだら、もうお仕舞いだ。
 その悲しみを埋めてくれるものは無い。私の心は彷徨い続けた。誰かが、或いは何かが、私の心の悲しみを消し去って喜びに満たしてくれないだろうかと。どんな悲しみを背負っても人は、お腹が減り、喉が渇き、腹を満たすとまた生きて、生き続ける。

 結婚して、子どもができた。腰が据わるようになった時に、子どもを胡坐の中に座らせた。
 その瞬間、めまいがする程の衝撃が全身に溢れた。そして、思い出した。死んだ父が、私が小さかった頃、私をよく胡坐の中に座らせてくれていたことを。涙が止まらなかった。
 父は私の中に生きていたのだと悟った。そして、私は父の事が大好きだったのだということを。
 私の場合は、こんな形で、慰めを得た。でも、私はなんで悲しんでいたのだろうかと思った。その答えは、父のことが大好きだったからだ。
 人はなぜ悲しむのだろうか。きっと、失った人のことが大切だったからだろう。その人は死んでも、いなくなってはいない。悲しむ人の中に生き続けている。
 その人を愛していたことが、今の自分を形作ってくれているのだと思う。その人のことを悲しみ続けることそのものが、慰めなのだろうと思う。

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