美人は変わる

 「美人」という言葉も概念もあるが、悲しいほど不安定で不確かなものである。そして、芸術家は様々な『美』を追求する中で、『美』は時代、文化、国、民族などによって、様々変わることを示している。
 日本の「美人」も時代によって、随分と違うだろう。最初のは世界三大美女と呼ばれた「クレオパトラ・楊貴妃・小野小町」のうちの一人「小野小町」である。平安美人と呼ばれる日本の美女の最高峰かも知れない。そして、右下は、江戸時代の浮世絵に描かれていた「美人画」である。浮世絵というと、ちょっと奇妙に感じる絵が多いように思うが、浮世絵は「絵画」としてよりも「写真」としての働きが強かった。つまり、ここに描かれている美人は、当時の写真のように描かれている「リアル」なものと理解しなければならない。昭和の言葉では、いわゆる「ブロマイド」である。
 そして、左下は自ずと知れた「お多福」である。「お多福」はその名前の通りに祝福多い素晴らしい女性を意味しており、国民すべてのあこがれであっただろう。
 しかし、すでにお気づきのように、現代ではそれほど大した美人ではないだろう。
 そして、クレオパトラにしても、カエサルやアントニウスが気に入ったというのが、その理由だし、楊貴妃も玄宗皇帝が好きだったという理由である。小野小町は誰が美人だといったのかはわからないけれど、時の権力者が気に入れば美人だということで、彼らの美意識が普遍的なものであろうはずもない。西洋絵画に出てくる肖像画にしても多少のエフェクトはあるにしても、肖像画を描いてもらえるほどの地位とお金を持っている者の趣味か自分の奥さんか娘か愛人でしかないだろう。
 一番庶民的と言えるのは、浮世絵だろうが、実際に見て、ここに登場する美人を美人と思う人もいるかも知れないが、現代ではそう思わない人の方が多いだろう。
 今、「お多福みたいな人」や「平安美人みたいな人」とか「浮世絵美人」という表現は、それほどの誉め言葉にはならないだろう。
 それほど、「美人」ほどあてにならないものはないと言える。日本人はまわりにあまりにも影響され過ぎるし、服飾企業や映像企業などの都合で、流行やアイドルは造られると、すぐにそれに乗りたがる。確かに乗っているその時は、ひと時の安心感もあるかも知れないが、すぐにまた変わる。
 そして、自分を見失い、振り回されることに疲れ、流行を追うことにも疲れ果て、精神を病んでしまうこともある。
 美しさは一人ひとり違うし、感じ方も好みもそれぞれだし、そうあるべきだと思う。
 自分だけの『美』を追求するのもいいかも知れないが、所詮外見だけの、やがて朽ち果てるものとして、無視するのもいいことだと思う。 

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