
【新改訳2017】マタイによる福音書
19:3 パリサイ人たちがみもとに来て、イエスを試みるために言った。「何か理由があれば、妻を離縁することは律法にかなっているでしょうか。」
19:4 イエスは答えられた。「あなたがたは読んだことがないのですか。創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。
19:5 そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。
19:6 ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません。」
19:7 彼らはイエスに言った。「それでは、なぜモーセは離縁状を渡して妻を離縁せよと命じたのですか。」
19:8 イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、あなたがたに妻を離縁することを許したのです。しかし、はじめの時からそうだったのではありません。
19:9 あなたがたに言います。だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになるのです。」
19:10 弟子たちはイエスに言った。「もし夫と妻の関係がそのようなものなら、結婚しないほうがましです。」
たぶん少し長い話になると思いますので、最初に謝っておきます。この話はキリスト教の中で、重要であり、面倒くさい話だからです。そして、私は「これまでの、そして、現在も、キリスト教は間違えた教えをし続けて来ている」と思っています。何回かに亘ってお話ししないとならないと思いますので、ご理解ください。
キリスト教と言えば、「男女不平等の盟主」と考えらていると思いますが、元来は違います。イエス様自身が教えた言葉を中心にして考えなければならないのに、これまでのキリスト教は、自分たち男に都合の良い、「男尊女卑」を延々と主張し続けて来ました。私は完全なる「男の傲慢と欺瞞」の結果だと思っています。そして、その教えを続けて来たキリスト教会の「怠慢と現状維持(既得権益を保持)のサボタージュだった」と考えています。
イエス様が引用した聖書箇所は、創世記の初めに、男女が造られたすぐ後に、神様が宣言した言葉であって、「男女は『一体』となる」とあります。一度一体となったものを引き離すことはできないし、一体である以上「同等であり、『同質』である」はずです。だから、イエス様は、「離婚はできない」と言っているのです。
さらに、「父と母を離れて」ともあります。「父と母の管理下」にあったのでは、男女が一体となることを阻害するということです。特に「男は」とあるのも、「マザコン」などもってのほかということでしょう。
そして、モーセが離婚を許した理由は、「心が頑ななので」と、理由まで説明しています。そして、その「頑なさ」が現代の教会の中にまで浸透していて、相変わらず「男尊女卑的な教え」を繰り返しているのです。そしてそれは、イエス様自身の弟子たちの中でさえ無自覚に無理解に受け継がれていることがわかります。だから、パウロの教え(またいつか書きます)の中でも、それを繰り返すしかなかったのだと考えられます。
だから、もし教会で未だに「男尊女卑的な教え」をしているのであれば、聖書を正しく理解できていないし、イエス様の言葉を間違えて教えているので、そんな教えを聞く必要も、従う必要もありません。
男女は等しく仲良く愛し合うべきです。
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