666番目のブログ

 今日、すごいことに気が付いてしまいました。今上げているこのブログが「666」番目の記事であることに気が付きました。
 クリスチャンのサガでしょうか。「666」という数字には反応してしまいます。

【新改訳2017】ヨハネの黙示録
13:16 また獣は、すべての者に、すなわち、小さい者にも大きい者にも、富んでいる者にも貧しい者にも、自由人にも奴隷にも、その右の手あるいは額に刻印を受けさせた。
13:17 また、その刻印を持っている者以外は、だれも物を売り買いできないようにした。刻印とは、あの獣の名、またはその名が表す数字である。
13:18 ここに、知恵が必要である。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。それは人間を表す数字であるから。その数字は六百六十六である。

 この刻印の今の一番の候補が、腕などに入れるバーコードで、囚人のようなイメージで考えられている。人間のすべてを支配し、崇拝させようとするものが、この「獣」である。そして、この獣の一番の候補が「人工知能」だろう。

 人類の運命を最も大きく影響させたものが、「善と悪の知識の木の実」だろう。だから、善悪の判断は絶対にできる。だから、悪いことをするのはすべて「確信犯」となる。なのに人は常に「悪」ばかりを選んでしまう。その行きつく先が、この黙示録である。

 善いものを選べるはずなのに、善い結果にはならない。善いものを選んだはずなのに、善い結果にはならない。そして、すべてが「滅び」へと向かって進み続けている。そう「黙示録」は警告しているけれど、人は自ら滅びを選んでしまうことになる。
 ここでは、何度も書かせて頂いているけれど、「善悪の知識の木の実」は、決して「知恵の木の実」ではないし、対になっていた木は「命の木」である。むしろ「命の木」を選ぶことこそが、「知恵」だったのだ。そして、今も「命」を選ぶことが「知恵」であり、命を選ぶために働かせるものが「知恵」である。しかし、人は命よりも他の何かに目がくらんでしまう。それが「善悪の知識」なのである。

 「6」は聖書の中では、「7」を完全数と考えるので、「不完全」を意味している。「666」は知恵がるように見えても「不完全」なものであり、実際には「知恵」が欠けているのである。
 例えば、原子力発電のように、莫大なエネルギーを生み出すことができても、結局「核廃棄物のゴミ」を大量に作り出して、処分ができない。「善い」と思って選んでも、結果として「悪い」ものまで生み出してしまう。
 命を選ぶことに舵を切らなければ、滅びを止めることはできないだろう。

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