
山上被告に対して、検察側は、「不遇な生い立ちは、量刑の大枠を変えるものではない」ということで、無期懲役を求刑したと、ニュースにで聞いた。
45歳の大人で、責任能力はあったと思うし、とても大きな事件であったことは確かだと思う。だから、死刑かも知れないと思っていた。むしろ、無期懲役は少し軽くなったのかと思った。
ただ、この「不遇な生い立ち」ということをどう扱うべきかについては、考えさせられる。最近の若い人たちの間で、「親ガチャ」という言葉がはやっているようだけれど、「親ガチャというものは、45歳になったら、考慮されない」と言われているように感じてしまう。
生い立ちは大人になっても、人生を大きく左右するし、していると思う。前期高齢者になって、人生を振り返ると、親の境遇や判断で自分の人生が大きく左右されて来たことに思いが至る。成人したのだから、生い立ちは関係なく、自己責任であると言われたら、やはり無理なことを言われているように思う。そう言うことのできる人は、人生を成功的に過ごして来られたのだと思うけれど、人生に失敗したと思う人は自己責任と言われるだけで、絶望するかも知れない。
今回、判例もあるだろうから、それに基づかなければならないとは思うけれど、「戦後史に例を見ない重大事件」と言うのなら、判例に捕らわれずに、「本来、死刑にすべきであるが、『不遇な生い立ち』を考慮して、無期懲役を求刑する」と言ってほしかったように思う。
裁判とは、その人の罪を罰することが目的であると思うけれど、広く国民に犯罪を犯させないためでもあると思う。「不遇な境遇であっても、犯罪を犯してはならない」ということを伝えるために、「不遇な境遇」を無視して、量刑を決めたとするのか、考慮して、量刑を決めたとするのか、が大切なことに思える。それが同じ量刑であったとしても。
「不遇な生い立ちでも、大人になったら、自己責任だから、自分で何とかしろ。」と言っていいものなのだろうか、と考えてしまう。昔は子どもの頃から、「自分で何とかしろ」と言われていたから当たり前だったが、その反面、児童福祉などはなかったように思う。



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