
家から歩いて一分もかからない所に海があり、そこから十分ほど歩くと、浮桟橋やハマチやタコのいけすがあった。そこへ行くと、兄たちを知っている先輩たちがいて、優しくも釣り道具を貸してくれ、エサまでもくれた。竿はなく、巻き糸と道糸と錘と針というシンプルなものだったが、遠くへ投げるために、投げ縄よろしく手元でクルクルと回して狙いを定めて投げた。竿投げをしている先輩に「自分よりも遠くに正確に投げる」と言って、ほめてもらった。そんな頃にこの「釣りキチ三平」という漫画が連載されていて、これを真剣に読んだ。
場所(川、海、干潟…)や狙う魚によって、仕掛けやエサなど釣り方を変えることや海底の地形や水の流れなどを考慮しなければならないことなど、とても詳しく書いてあった。
それから十年以上経って教会へ戻った時に、イエス様の初期の四人の弟子のペテロ、アンデレ、ヤコブとヨハネは皆漁師だというのを知って、驚いたのと同時に、とても親しみを持てた。最初、「どうして漁師を選んだのか?」という理由がどうもよくわからなかった。でも、自分の魚釣りの経験からこれはとても理にかなったことだったのだと思えた。
「人をとる漁師」ということは、場所や環境と対象とする人の生態や性質などを理解して、それに合わせた仕掛けが必要なのだと考えなければならない。それらのことを理解するために、「想像力の訓練」が必要なのだと強く思わさされた。
海の中や川の中などは見えない。その見えない世界の形状やそこを流れる水の流れやそこを泳ぐ魚の姿を想像しなければならない。潮が引いて海底が少し見えることがあるとなんとなくどうしてそこに魚が集まるのかがわかるような時もある。それらの情報を取り入れて、想像力を拡大する。
「釣りキチ三平」のような手引書はありがたい存在だった。
そして、もっと見えないのは、「人の心」だろう。誰かを理解するために必要なのは「想像力」だろう。特に男の私には「女ごころ」は謎である。わかるところもあると信じたいが、最終的にはわからないところが出て来る。その謎なところが魅力なのだと思う。
一番謎なのは、神様の御心だと思う。正直、神様は何を考えているのかと思うことしばしばである。弟子たちがイエス様に振り回されているのを見て、納得である。
そして、この「想像力」がとても大切である。私は「想像力」は「創造力」につながると子どもの頃からずうっと思って来たが、クリスチャンになっていよいよその重要性を知った。
神様はその莫大な「想像力」を「創造力」に転換して、世界を創った。
学生の頃に美術の世界に触れることができたのは、本当に有り難いお導きだったと思う。


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