
【新改訳2017】マタイによる福音書
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く者を雇うために朝早く出かけた、家の主人のようなものです。
20:2 彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った。
20:3 彼はまた、九時ごろ出て行き、別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た。
20:4 そこで、その人たちに言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから。』
20:5 彼らは出かけて行った。主人はまた十二時ごろと三時ごろにも出て行って同じようにした。
20:6 また、五時ごろ出て行き、別の人たちが立っているのを見つけた。そこで、彼らに言った。『なぜ一日中何もしないでここに立っているのですか。』
20:7 彼らは言った。『だれも雇ってくれないからです。』主人は言った。『あなたがたもぶどう園に行きなさい。』
20:8 夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼んで、最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちにまで賃金を払ってやりなさい。』
20:9 そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った。
20:10 最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった。
20:11 彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした。
20:12 『最後に来たこの者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは、一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱した私たちと、同じように扱いました。』
20:13 しかし、主人はその一人に答えた。『友よ、私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と、一デナリで同意したではありませんか。
20:14 あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。
20:15 自分のもので自分のしたいことをしてはいけませんか。それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか。』
20:16 このように、後の者が先になり、先の者が後になります。」
ちょっと長い聖書のお話で、すみません。このお話が好きです。タイパとか、コスパとか、雇用契約とか、経済的にも、政治的にも、法律的にも多方面から、文句を言われそうなお話だと思う。
だからこそ逆に、神様の思いは人間にはわかりにくいのだと思う。
これはある意味で、絶対的な共産主義とも言える。能力や労働時間に関係なく、全員が同じ報酬を得る。翌日からは、みんな一時間だけ働いて一デナリを獲得する方に走るだろう。
でも、神様が願うのは、同じ報酬でも、自分の力を精一杯使って働くことである。
これが、できる者は天国に行くことができる。
そう言われると、面倒な宗教のように思われるかも知れないけれど、それが、家族で、外で働いて来たお母さんと、家で家事をしていたお父さんと、学校から昼過ぎに返って来て、ゲームをしている子どものために、晩御飯を作っているお父さんのお手伝いをお母さんがして、子どもがテーブルの準備をして、それぞれか必要なだけを食べ、デザートのケーキはみんな同じ大きさかも知れない。
でも、それを不公平とは考えないだろう。
神様の一デナリとは、その人の必要な食糧かも知れない。みんなが一デナリずつもらって、みんなで分け合うことが最も麗しい姿だろう。
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