隣人愛

「隣」という字と「憐れみ」という字はよく似ていて、「隣」の人を思う気持ちから「憐れみ」という字が生まれたとか…。
「りっしんべん」は「小さい」という字だと思っていたら、「心」という字なのだと知った時は、少し驚いた。それで、心情に関する文字の時に使われているということだった。
「情」という字は、「小さい青」だと思っていたから、「青春」を表す漢字で、「若い時に心が揺れる弱さ」を表していると思っていた。「情」的なことは、「強い心」「男らしさ」には必要ないから、「気持ちなんか考えるな」という時代だったせいもあると、責任転嫁している。
キリスト教では、「隣人愛」は大切な言葉であるが、「隣人(となりびと)」という言葉はキリスト教のオリジナルのような言葉だから、日本語的には「造語」のようだ。
「隣組」とすると、最近では面倒くさい「町内会」みたいなイメージになるから、「隣人」ということばを創ったようにも思う。
「憐」の字を「あわれみ」と読むと、「哀れみ」に思える。「哀れみ」というと、少しマイナスイメージがある。でも、「隣の人」を思い遣る気持ちは、「哀れみ」ばかりではない。でも、「愛」の始まりは「哀」から…。みたいなことを言われる。
「愛」するという言葉は、「哀」の「アイ」から来ているのだろうか。
「可愛い」が「可哀そう」とよく似ている。「可愛い」は「可哀い」なのではないかと思う。
キリスト教の愛は「隣人愛」と言われているのは、確かに「良きサマリア人」の話からも、「哀れみ」の愛のように思う。
ただ、日本では「可哀そう」という言葉には、「上から目線」とか「見下している」とかのイメージがあるように思う。残念だ。
「困っている人」は下ではない。「悩んでいる人」も「苦しんでいる人」も下ではない。
みんな横並びの「隣の人」だ。
だからなのか、「哀れみ」よりも「憐れみ」の字の方が好きに思う。
いつでも、どこでも、「マウントの取り合いが好きな人」には、わかりにくい「愛」かも知れない。
ボランティアはこの「隣人愛」に基づいているのだと思う。

子どもの頃、化学部だったので、「燐」という字が好きだった。恋愛は是非この「燐」のように燃え上がりたいと思うと、先輩に話したら、「すぐに燃え尽きるよ」と言われた。そう言えば、体形は今からは想像できないけれど、マッチ棒のようだった。

コメント

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました