
追い詰められた時によく聞く言葉に「神も仏もあるものか」と「神にでも、悪魔にでもなってやる」というのがある。
所謂「糞味噌」というものだろう。今どきなら、「糞味噌カレー」と言った方がいいかも知れない。
なぜ、糞と味噌とカレーを同じものと誤解するのか。まして、神と仏、あるいは、神と悪魔を同じように思うのか。
冷静に考えれば、全くの別物である。全く人間としての知性に欠けているというしかない。
日本では「信心」が大事だと言われる。しかし、信じる相手(対象)こそが一番重要であることは、火を見るよりも明らかである。
誰と結婚するのかは、結婚する相手次第で幸せにも不幸にもなるというのは、当然すぎる。
なのに、どうして、「信じる神が何者なのか」ということが、ほとんど無視されているのだろうか。
信じる神を間違えれば、幸せになどなれるはずがない。こんなわかり切ったことを、日本では無視して、何でもいいから「信心」が大切だという。そんなバカなことがあるはずがない。
戦前、国家神道を強制され、ただの人間だった天皇を神と信じ、あの悲惨な戦争をし、敗戦という最悪の結果を招いておきながら、それをなかったことのように語り、日本にはなんの罪もなかったように考えるとしたら、「知らなかった」「わからない」としらばくれても、幸せになることはできないだろう。
「神は愛である」というのは、キリスト教の教えである。他の宗教がどんなにマネをしてパクっても、真実ではない。元々が「愛」ではないのだから。
愛の神を信じるのでなければ、愛を与えてもらえることはない。真実の神を信じるのではなければ、真実を手に入れることはできない。祝福の神を信じるのでなければ、祝福は得られない。
どんなに熱心に情熱的に信心をしても、相手が糞だったら、カレーにはならない。
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