信じるだけで救われる!

 随分前だったと思うが、エホバの証人のトラクトがポストに入っていた。そのトラクトの見出しに「本当に信じるだけ救われるのか?」と書いてあった。いくらうちの教会が弱小教会とは言え、めっちゃケンカを売っているように感じた。確信犯なのだろう(笑)!
 でも、この見出し、なかなかうがっていて面白いと思った。こう訊いてくるのだから、答えは当然「信じるだけでは救われない」というものだった。
 実はこのやり取りだけで、キリスト教かどうかがわかります。

【新改訳2017】ローマ人への手紙
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

と、あります。「『口で告白する』から信じるだけではない」といわれそうですが、確かに、誰かを愛していることと、告白することとはイコールではないでしょう。でも、誰(相手)もいないところで告白するのなら、ほぼイコールだと言えると思います。
 問題なのは、何か「行為」を求めることである。例えば、「信仰を持っているなら、〇〇をするべきだ」からの「〇〇しないのは、信仰がない」。だから、「〇〇しないのは救われていないことだ」となることです。
 これは、キリスト教から見たユダヤ教のあり方で、「行いによる義認」と呼ばれています。それに対して、キリスト教の主張は、「信仰による義認」です。
 だから、どこまでいってもキリスト教は「信じるだけで救われる」のです。それら対して、エホバの証人(ものみの塔)という団体をキリスト教界は、キリスト教とは認めていないのです。いわゆる「異端=カルト」であるとしています。

 しかし、問題はそこではなく、その「信じるだけ」が、日本人にはできないのではないでしょうか。教会に来て、信仰を持つということ自体がかなりハードルの高いものだと思う。
 神社やお寺に行って、気楽に手を合わせたり、お参りをすることができても、いざ教会となると難しいと思います。
 クリスチャンになった人でも、「踏み絵を踏まされるのか」とか「迫害されるのか」とか「村八分にされるのか」等々、実際に考えたと言う人は多い。
 信仰だから、自由にどうぞと思うけれど、なかなかそうはいかないようである。黙って、勝手に信仰を持っているだけでいい。それで、救われるのなら、よいのではないかと思うけれど、なかなかそうはいかないようだ。
 でも、「信じるだけで救われる」とは、真実なので、とりあえず信じてみてください。別に教会に行かなくてもいいので、信じてみてください。そうすれば、「自分が救われている」という実感を持つことができると思います。
 そう感じられなければ、救われていないので、もっとしっかりと信じることをお勧めします。
 

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