
能登の復興支援のためのボランティア活動が続いています。今年は元旦(発生日)を挟んでの日程での支援ということです。皆様のお祈りとご支援をお願いします。
今回のボランティアの日程を見て、やはり考えてしまうことがあります。それは、能登の人々はこれから、お正月をお祝いできるのだろうかということです。
私の父は12月30日に死亡しました。年末だったので、翌日31日には葬儀をしなければならないということで、大慌てで葬儀の準備をしました。そんなことで、お正月も何もない状態になってしまいました。その時から、私はお正月をお祝いすることはできなくなってしまいました。勿論周りに合わせていたり、太田先生とお正月を迎えた時は、お正月というよりは、太田先生という第二の父的存在と一緒だったという感じでした。
だから、父のことを思い出すと、お正月をお祝いするというのは、ツラいことでしたし、特に実家にいる時は全然そんな気にはなれなかったと思います。
能登の人たちは、元旦を迎える度に地震のことを思い出すことになります。それは、私たち日本人全体にとっても同じことになるのではないだろうかと思います。
クリスマスは「救い主の誕生」をお祝いしています。でも、イエス様は十字架に掛けられ、殺されるために生まれたのです。キリストが私たちの身代わりの生贄となってくださることで、私たちの罪が取り除かれます。だから、「神の子羊」と呼ばれています。かわいいだけの子羊ではありません。私たち人間の身代わりになってくださるためだったのです。
その事実を知り、理解した時に、クリスマスは「ハッピー」でも「メリー」でもないと思いました。しかし、教会では「メリークリスマス」と言っています。とても複雑な気持ちになります。
でも、そのことをじっくりと考えるとクリスマスのお祝いの仕方がわかるような気がしました。ただ手放しで「おめでとう」と言うのではないと思えます。キリストの尊い犠牲の上に成り立っているクリスマスなのだと考えることができると思います。それは、痛みと悲しみを伴う、恵みであり、祝福です。だから、「福音」と呼ばれたのだと思います。
こう考えてみるのはどうでしょうか。震災で亡くなった方々の尊い犠牲の上に今生かされている人は、ゆるされて存在しているのだと。亡くなられた方々の犠牲の上に私たちは生かされているのだと。
私は父と母によって命を与えられました。その父と母の犠牲の上に、献身的な子育て、助けの上に自分の存在があるのだと思います。父の死の意味はわかりませんし、なぜあの時だったのかと考えてもわかりません。それでも父の死が尊い犠牲だったのだと思いたいのです。
犠牲という言葉は不思議です。犠牲とは、「いけにえをささげる」という意味です。いつ頃から使われて来た言葉なのでしょうか。
でも、亡くなられた人たちは、「私たちのための犠牲になられた」と理解したからではないかと思います。
だから、亡くなられた人たちの命を頂いて、私たちは生きているのだと思い、彼らの思いを引き継いで生きていかなければならないと思い、彼らが手に入れられなかった幸せで素晴らしい夢や思いを実現していかなければならないと思いたいのです。
だから、お正月をお祝いするとしても、そこには、これまでの先人たちの尊い犠牲の上に成り立っているのだと思うことが必要なのではないかと思いますし、バカ騒ぎをする必要はないように思います。
私たちの身代わりとして犠牲になってくださった人たちに感謝をささげることが、お祝いなのだと思います。


コメント