旧約聖書の巨人モーセは荒野で神様と出会う。その時に神様に名前を尋ねると「わたしは、『わたしはある』という者である」と答えた。英語では「I AM WHO I AM.」とある。この時、「be動詞」が存在を表すということがわかった気がした。つまり、神様の名前は「存在する」という名前なのだ。
人は神様が見えない。助けを求めようとしてもどこにいるかさえわからない。「神様、『いる』のなら、助けてください。」と、神様を探しまわる。なのに神様の名前は「存在する」「いる」という名前です。「名は体を表す」のなら、神様の存在ほど確かなものはない。
聖書を読むとアダムとエバは罪を犯した後も神様と顔と顔を合わせて話をしている。罪が深まったのか、善悪の木の実の毒が回ったためか、神様を見ることができなくなった。
今神様を捕らえる方法は「信仰」しかない。目に見えないものの存在は「信じる」しかない。
私の知り合いに、四十代になって視力を失った人がいた。その人が「色々不便はあるけれど、良かったことが一つあります。それは、『神様を信じること』です。目が見えてた頃は、どこにいるのかなと思迷っていたようですが、見えなくなると『いる』ということだけで十分だとわかったからです。」と話して下さいました。
「見ないで信じる者は幸いである」というイエス様の言葉そのもののように思いました。
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