『ことば』とは?

   【新改訳2017】Ⅱコリント3:6:c
   文字は殺し、御霊は生かすからです。

 「聖書」は「(み)ことば」と言われ、「ことば」は「イエス様」であると言われています。そして、聖書は元来「旧約聖書」と呼ばれているものを指して、写真にあるように羊皮紙に書かれた巻物でした。そして、「旧約聖書」とは、「モーセ(五書)・預言者(書)・諸書(詩篇など)」に分かれていて、世界で最も大切な書物です。
 ユダヤ教はこの旧約聖書を解釈したミシュナーなどがあり、それらの教えがユダヤ教となっている。イスラム教では、コーランなどがあり、それによって、旧約聖書の神を信じている。キリスト教は、新約聖書があり、新約聖書はイエス・キリストによる旧約聖書の教えの解釈が書かれている。

 ご理解頂けることは、これら、「三宗教」は、同じ「旧約聖書」を共通のものとして信仰しており、その神を信じている。

 しかし、問題は、その解釈において異なるところがあることだろう。勿論、共通の理解と信仰もある。

 元々熱心なユダヤ教徒であり、聖書理解の深いパウロが、イエス・キリストと出会い、聖霊を注がれることによって、聖書の正しい理解に到達したというのが、キリスト教の主張である。
そこで、登場した言葉が上記のものである。「文字」とは、「旧約聖書」を指し、聖書を正しく理解しなければ、それは、「人を殺すものになる」と言っている。その聖書の言葉を正しく理解するために必要なものが「御霊」であると言っているのである。
 その「御霊」はペンテコステの日に教会に降ったとされ、その日を教会の誕生日としている。それはキリストの死から五十日目である。
 「御霊」とは「神の霊」であり、「神の魂」であり、「神の心そのもの」である。
 つまり、聖書の言葉を神様の心に従って読まなければ、真意はわからない。そして、神の霊に従って読む時、聖書の言葉が「いのちのことば」となり、「人を、魂を生かすもの」となる。

 これは、ラブレターに譬えることができる。「ラブレターの書き方」のような本が昔よく出ていた。別に好きでもない人に、歯の浮くような言葉を本を参考にしながら書く。そこには、心など何一つこもっていないかも知れない。しかし、もらった方は、言葉に感動して、差出人を愛してしまうかも知れない。
 まさに、詐欺である。

 どんな美辞麗句でも、心のこもらないものは、何の価値もない。
 まして、聖書のことばでさえ、神の愛を知らなければ、何の意味もない。

 「求めよ、さらば与えられん」という言葉は、よく引用される。しかし、それは、決して、「死に物狂いで求めれば、ほしいものは何でも手に入れられる」というような強欲な意味ではない。
 神の愛を前提にすれば、神はあなたにとって必要なものは知っていて、何でも必ず与えてくれると『信じる』ことで、すなわち、それを与えてくれる『愛の神がいる』ということを知ることが何よりも大切であることを教えている。
 人はこの世のすべてを手にしても、「愛の神」を知らなければ、信じなければ、全く虚しい存在である。

 ちょっと長くなってすみませんでした。

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