男の側の好みもそれぞれ

 学生の頃、相談を受けたのは女の子たちだけではなく、男からも相談を受けた。内容はお決まりの「恋愛相談」なのだが、いくら聞いても納得がいかないというか、理解できなかった。理由は簡単で、その男が好きな女の子の説明に、まったく同意できなかったからだ。
 その子の良さをツブサに説明してくれる。容姿からしぐさ、性格や行動や対応の仕方など、いかにその女性が素晴らしいのかを説明してくれ、思いつく限りのアプローチをしたのだが、どうしも付き合ってくれるとは言ってくれないという、悲痛な悩みだった。
 一応、カウンセラーとしての矜持として、「共感」をもって接しようと思うのだが、私の心の中のどこかにある「私」の部分がどうにも、拒否している。どうにも、「共感」できないのだ。
 その女の子の容姿から始まって、しぐさも態度も言葉遣いも性格も、おしゃれのセンスも、そのどれをとっても、その男がその女の子を「素敵だ」と思っていることが、まったく理解できないのだ。「なぜ好きなのか」を共有できない。「私」はまったく興味を惹かれないし、そばにいてもその存在にすら気づかないかも知れないのである。写真も見せてくれたけれど、私の好みと重なるところが全く無い。
 その男は、その女の子を「絶世の美女」だと言う。「私」には、ピカソの描いた「泣く女」の方がよほど美人に見える。
 ただ、苦しんでいることはよくわかる。悩んでいることも。そして、叶わぬ恋となり、失恋するだろう悲しみもわかる。だから、その点については、理解できるし、共感もできる。そして、できる限りの言葉で慰め励ましてあげたつもりだ。帰るときは、少し元気になっていた。
 しかしその後、私は悩んだというか、世の中の摂理というか、不思議さをしみじみと感じ、理解し、受け止めなければならないために、苦労した。
 男だからと言って、女の子なら誰でもいいわけではないし、その女の子もどんなに好きだと言ってくれるとしても、その男を好きにはなれない。世の不条理というか、理不尽さというか、切なさを嚙み締めた。
 「女」の「子」と書いて、「『好』き」、「女」の「子」と書いて、「『好』み」というのは、何かとても深い因縁を感じさせる。「男」の「子」が一文字になったものは日本にはない。男は「好き」でも「好み」の対象でもないということなのだろうか。
 ただ、言えることは、本当に「好み」も人それぞれだし、「美人」も人それぞれだし、同じでなければならない理由の方が無い。
 そして、女の子が当時は男の子よりも普通によくお化粧やおしゃれをしていたが、そのお化粧もおしゃれも、まったく好みが違う。大概、女の子が自分でいいと思っているメイクもおしゃれもハズレだらけなのに。
 「やせている女性が美しい」と思っている女の子も多いのかも知れないけれど、ふくよかな女性を好きな男は多い。髪の毛の長さも色も、当然、体形も顔立ちも人それぞれ好みは違う。
 テレビや雑誌やSNSのインフルエンサーが何て言っていようと、そんなのまったく、全然関係ない。視聴率を稼ぎ、販売数を増やし、登録者数を増やすのが目的なだけでしかない。ばかばかしいから、相手にしないでほしい。
 でも、「抜け駆けしたい」と思っていると、その罠に引っ掛かりやすい。
 悪魔は「あなただけを美しくし、モテる女の子にしてあげよう」と言って、無意味で、無駄なことをさせ、時には身体も精神も破壊しようとして来る。
 だから、私も魔法の言葉を語りましょう。牧師なので魔法を使ってはいけないのですが、悪魔と悪霊に対抗するために、彼らのやり方を使いましょう。
 「あなたは『美しい』。何もしなくても限りなく『美しい』。いやむしろ、何もしない方が『美しい』。あなたがあなたであることが『美しい』。そして、その『美しさ』を理解できる人と一緒にいることが『本物の幸せ』であり、そんなあなたを愛してくれる人の愛こそが、『真実の愛』である」と。
 自分を大切にしてほしい。健康を害することはやめてほしい。

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