隠れキリシタンのすすめ

 日本では現在でも表立ってクリスチャンになるというのは難しいようだ。「信教の自由」は認められていても、「世間の目」や「家族の意向」などがあって、教会を訪ねてみることさえ難しいことのようだ。
 二十年程前にクリスチャンになったばかりの人から聞いたのは、洗礼を受けてクリスチャンになったことを母と祖母に話したら、涙を流して「あんたは何てことをしたの…」と泣かれてしまったという証だった。
 「クリスチャンになる」というのは、キリスト教の国では、「悪いことをやめて、真っ当な人間になる」という意味だけれど、日本では「何か正気でも失ったのか」という意味になるのだろう。

 神学校を出てすぐに行った大分県の蒲江の教会で、今で言うグループホームのようなお年寄りが集まって、家人が忙しい日中を過ごす場所があった。教会の人の紹介でそこへ行って集会を開かせて頂いた。五人程のおばあちゃんたちがいて、賛美をして、聖書の話をして、色々な相談を聞いたり、世間話をした。
 しばらくした時に、「先生の話はとてもいいし、楽しい。イエス様が本物の神様だというのもわかった。だけど、私の家はずうっと仏教だから、クリスチャンになることはできないし、教会にも行けないが、『信じるだけでいい』というのなら信じるが、それでもいいか?」と聞かれた。
 だから、「十分です。これで、天国で再会できますね。」と言って、みんなで喜んだ。

 日本ではキリスト教に対する迫害は熾烈を極めた。そんな中で信仰を持ち続けることは至難の業だった。その影響は現在にまで残っていると思う。
 隠れキリシタンたちは、踏み絵を踏み、仏教徒として生活し、神社の総代も務めて、表立ってキリシタンとしての活動はしなかった。それでも、みんなで秘密裏に集会を持ち、礼拝と祈りを捧げ、信仰を貫いた。
 明治になり、表に現れた隠れキリシタンたちをカトリック教会はクリスチャンとして認めた。

 裏を返せば、大切なのは信仰そのものだということがわかる。
 家や地域とのかかわりの中で、今でも「信教の自由」や「思想の自由」や「言論の自由」が完全に認められているとは思えない。忖度という名の下に、様々な制約がある。
 表立ってクリスチャンになるというのは、今でも困難なことのように思う。
 そうであっても、信仰を持つことは、これから起こる「終末の滅亡」を乗り越えるために確実に必要なものだ。
 表向きは何も変えなくてもいいから、心の中でイエス様を信じてほしい。それが、たとえ保険の一つとしてでもいいから。
 世が滅び、死んだとしても、最後の審判の時、イエス様の前に立った時に、「少しだけですが、信じていました…」とだけでも言ってほしい。
 それでも、天国に入れると信じています。
 「信じるだけで救われる」というギリギリかも知れませんが、大丈夫です。

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