
「呪い」とか「呪われている」とか、誰でも考えたことはあるのではないでしょうか。そして、呪いというものは、自分を不幸にしているものであることだと思いませんか。
一時、「親ガチャ」という言葉がありました。「選ぶことのできない」親によって、自分の人生が不幸になっている。それが不幸の原因で、つまり「呪い」であるとなる。
それと同じように、自分では選べないもののすべてが「呪い」の原因だと考えらる。
日本人であること。中国人であること。韓国人であること。北朝鮮人であること。ロシア人、アメリカ人フランス、イギリス…。その国の人間であることで不幸な目に遭っていたら、それは呪いでしょう。
男であることや女であること。容姿、体形、能力や学力や…。自分が自分であることが「呪い」だと思うこともあるのではないだろうか。
生まれた年や兄弟や家族の中での立ち位置や。
それらの個人の持つものが、幸せにも不幸にもなる。それが、幸せにつながる時は「祝福」で、それが不幸につながる時は「呪い」となる。
同じようなものを持っていても、幸せと不幸に分かれることがある。そうなると不幸になったことは「呪い」としか思えないかも知れない。
私も多くの呪いの中で生きて来ましたし、今もそうした呪い(制限)の中で生きています。アルベルトに「生きて、自由になりなさい」と言ってほしいですね。
【新改訳2017】申命記30:19の中に、
あなたがたに対して天と地を証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。
と、あります。
私たちは「選ぶ」ことができるとあります。その中には、「人を幸せにする道」もあって、それが「自分を幸せにする道」であることも多いように思います。
アルベルトは「愛している」と言っておきながら、ヴァイオレットを幸せにしてあげられなかった。「いなくなる選択」ではなく、「一緒にいる選択」をすべきだったのでしょう。


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