「義人は信仰によって生きる」

【新改訳2017】ローマ人への手紙 1:17 福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 新約聖書ローマ人への手紙の最大のテーマが、この「義人は信仰によって生きる」であると言える。
 この「信仰」という言葉は、ギリシア語のピスティス (πίστις, pistis)であり、英語では「faith」という単語になる。しかし、このピスティスやフェイスを日本語に翻訳すると「信仰・信仰深い」と「忠実」という別々の言葉になる。
 上掲のガンダムシードの中に「faith、フェイス」という称号が出て来るが、コーディネーターのトップである「議長」に対して、ザフト軍の兵士として、「忠実なるしもべ」という意味での称号だと思われる。
 「信仰」を「忠実」とすると、「義人は信仰によって生きる」は「義人は『忠実』によって生きる」となる。そうするとニュアンスが変わる。忠実である以上、対象(つまり『誰』に対して)が必要になる。その対象とは聖書では、「『主』なる神=主イエス・キリスト」のみの一択となる。

 日本には「いわしの頭も信心から」という言葉がある。信仰の対象としての「いわしの頭」というのはまだわかるような気がするが、「いわしの頭に対して『忠実』であれ」と言われても、「???」意味不明である。

 ルターはローマ帝国に対してもローマカトリックに対しても法王に対しても忠実であろうとしたのだと思う。しかし、真の神=主に対して忠実であり、誠実であろうとした時に齟齬が生じたのだろう。
 そして、神にのみの忠実さを選んだ結果、プロテストするしかなかったと考えられる。

 ザフト軍の兵士として、忠実かつ誠実に生きようとしたアスラン・ザラは悩む。自分の信念と軍の方針=議長の考えに齟齬あるいは矛盾、またはズレがある。結果「フェイス」をやめる。

 「誰に従うか」「誰を信じるのか」「誰に忠誠を誓うのか」で人生は大きく変わる。犯罪者に忠誠を誓えば人生を失ってしまうことになる。
 「忠実さ」のみを取り上げて、「純粋に誠実に悪に従った」と誇ってみても、犯罪者にしかなれない。
 「義人(正しく生きる人)」であることは難しい。
 国の方針、組織の意向、会社の利益に従うことで、苦しみ、傷つき、痛み、悲しみ…、自らを壊してしまう人もいる。彼らは、自分の信じる『義』を貫こうとして倒れた人たちであることも多い。
 義なる神であり、愛の神であるお方は、そのような人たちの味方であり、そのような人たちを救い上げてくださる。そう信じることで「義人は生きる」ことができる。

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