
かわいい写真なので使わせて頂きました。ありがとうございます。
「日曜礼拝」という記事を前回載せましたが、本当はこの「礼拝」についての記事を書きたかったのです。明日にしようと思ったのですが、やはり書いておきたい思い、この時間になってしまいました。
「礼拝」とは、神様を賛美し、ほめ称えることだと思います。後は牧師なりのメッセージを聞いて、お祈りをしたりもします。
でも私は、「神様の前に出る」ということが一番大切だと思っています。そして、「神様と対面」もしくは「対峙」することだと思っています。
神様の前に出た時に、私たちは「本当の自分自身」「素の自分」を知ることができると思います。
私たちは、家から出たり、家にいても、誰か人と関係を持つと、「役割」が生じます。そして、相手に合わせた自分を演じなければならなくなります。
日本語の主格(自称)には色々あります。「ボク」「私」「俺」「ワシ」「うち」「おら」「わて」「あちし」「わっち」「自分」「われ」等々。それらを、相手に合わせて使い分けをしているのです。それは相手と自分の関係性を表す言葉です。そして、男でも大人になると「私」を使わなければならなくなります。私も社会人になった時には、「ぼく」をやめて「わたし」を使いました。最初は恥ずかしいと思いました。
そこには日本人特有の「対人関係の忖度」があればこそ可能な「超絶技巧」のような「必殺技」かも知れません。
でも、気が付いて頂けると思いますが、私たちは誰かと関わる度にその人に会わせた人格を演じます。そして、それは時には「偽りの自分」であるかも知れません。そういう意味では毎日毎日「ウソの自分」を演じて、「自分でない自分」として生きて行かなければなりません。それがイヤでも、相手に求められる自分でなければならないのです。
そのうち、「自分は本当は誰なのか?」「何なのか?」と思って迷い込んでしまうかも知れません。「自分探しの旅」なんてのが流行ったりするのもそのせいだと思います。
でも、「本当の自分」って何だと思いますか。
それを知ることがてきるのは、「神の前に出た」時だと思います。
キリスト教会では、神は創造主です。私を創ったのも神様だと信じています。もし、「製作者」がいるとしたら、その人に聞くのが一番早いと思いませんか。
「神様、私は何なのですか?」
それに対する神様の答えを私たちは必要としていると思います。
「神様、私は何なのですか。あなたは私を何のために作ったのですか。私のことをどう思っていますか。」と、私たちは神様を質問責めにしたいと思います。その答えとしての神様の言葉が聖書にしるしてあります。
【新改訳2017】イザヤ書 43:4
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」
礼拝の度に、神様の前に立って向かい合い、神様に「愛されている私」を確認することが大切だと思います。
マルチン・ブーバーの言う「汝と私」を確認することができます。一人の人間存在としての私です。人と会う度に私たちは「汝に対する『それ』」でしかないからです。「それ」とは相手の求める「偽りの私」だと、私は思います。
礼拝の時、『偽りの自分』をリセットして、「神様に愛されている『本物の自分』」を取り戻すことが何よりも大切だと思います。
本当のあなたを知っているのは、「創造主」である神様だけだと思います。


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