イエス様の教えと対立するような『考え方』や『信仰姿勢(主義)』のようなもので、新約聖書の中では「祭司や長老や律法学者やパリサイ派の人たちの教え」的な扱いになっています。
私は「小中高校の『校則』」みたいなもの、と説明しています。
学校の校則は元々は子どもたちがちゃんと勉強できるためのものだと思います。「遅刻をしない」「忘れ物をしない」「授業中に私語をしない」「華美な服装をしない」等など。
私が先生をしていた頃は、先生も、とにかく守らせることに必死になり、子どもたちも逃げることに必死で、毎日鬼ごっこをしているようでした。
それが、少し前に校門で、鉄製の門扉に挟まれて子どもが死ぬという事件が起こりました。
遅刻をしないように指導していたのだと思います。不幸な事件でした。
何のための校則だったのか、わからなくなってしまいます。子どもの学習環境を守るのが目的だったのが、このような事故になってしまったのでは、もう子どもは勉強できません。
本来は「神様の掟を守る」のが目的ったのに、気が付けば、「神様を忘れてしまって『掟を守る』」だけになって、仕舞には『何のための掟』だったのかも解らなくなってしまいます。
マルコによる福音書
2:27 そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。
2:28 ですから、人の子は安息日にも主です。」
安息日(神様が定めたお休みの日)を守ることは、神様の掟を守ることです。でも、安息日を必死で守っているうちに、本末が転倒してしまったようです。イエス様を思い出すことが、何よりも大切です。
本来、『神様の掟を守る』ことは、『人の生活を守る』ことです。
「神を愛し、人を愛しなさい」が最も大切な教えなのだから。
コメント