主は陶芸家であり、漆芸家かな

これは、私の母が結婚のお祝いに義姉から頂いたお茶碗です。関東から広島まで送ってくれましたが、届いた時には割れてしまっていました。子どもの頃からその話を何度も聞かされていました。余程、心残りだったと思います。

私は大学は教育学部でした。美術研究室に属していました。当時の指導教官は召されましたが、後に、漆芸で人間国宝になられた太田儔先生です。何かの折にこの話をしましたところ、「東君、漆には『金継ぎ』という技法があってね。壊れた陶器を直すことができるんだ。徳川家康が定めたのだったとおもうけど、金継ぎで直された陶器は元と同じ価値があるとされているんだよ。そのお母さんのお茶碗をもっておいで、金継ぎの技法を教えてあげるから、自分で直したらいいよ。」と言ってくださいました。

それで、卒業制作の合間に少しずつ進めていましたが、途中までしかできませんでした。私はその後、他大学の大学院へ行くことになり、そのまま置いておいたら、最後に金を塗るところは太田先生が仕上げて下さっていました。

先生からそれを受け取りまして、母に見せたところ、涙を流して喜んで、「くれぐれも太田先生にお礼を言っておいてね。」と言って、感謝していました。

早速、抹茶を買って来て、お茶を点てて母に吞んでもらいました。お茶碗を頂いてから、三十数年後に初めて、お茶を吞むことができました。

聖書には「主は陶器師」であると言っています。私は陶芸家と思っています。人は「土の器」に譬えられています。その土の器は壊れることがあります。その壊れたところも主は直してくださいます。人間国宝の太田先生のように。そして、その直された痕がそれはそれは美しいのです。

聖書では粘土の柔らかい時の様子が描かれていて、陶芸家の主なる神様は色々と構想を練って、作り変えてくださいます。でも、粘土は一度焼き上げると作り変えることはできません。そして、割れてしまったら、使いものになりません。でも、金継ぎの技法で元通りにすることができます。

人は生きる中で、色々なことで傷つけられ、時には壊れてしまいます。でも、主は『陶芸家』のように、『漆芸家』のように、人間国宝の業のように、神様なので天国宝の業で、直してくださいます。

その傷痕は、なんとも美しいと思います。

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