
「召命」というのは、教会で「牧師・伝道師・宣教師」などの役職に就くように、神様から任命されたということである。直接的に神様から声をかけられる場合もあるが、ほとんどが聖書を読んでいて、その聖書箇所をとても強く示されて、「召命を受けている」と自分で感じる場合が多い。神学校の証でもそんな感じのものをたくさん聞いた。こだわりは「どの御言葉で?」という質問をされる。
それで、召命を受けるとどうなるのかと言えば、牧師・伝道師・宣教師になるための準備のために、普通は「神学校」と呼ばれるところへ行き、勉強や訓練を受ける。
私の場合は色々と複雑で、何とも説明が難しいような気がする。
子どもの頃行っていた他教団の教会での出来事をなかなか話す機会がなかった。「聖霊体験」も「携挙の夢」もアッセンブリーとは違うので、それを「召命」として証できなかった。ここでは、皆様にお伝えしていますが、教団間の神学的な理解はデリケートである。
今から、お証しさせて頂くものもそんなデリケートなものかも知れない。
父が死んだ後、叔母が入院している病院に、母にお見舞いに行くように言われて、訪ねた。大体何を言われるか見当がついていたので、気が進まなかった。
会うと早速、「教会へ行け。」と言われた。
「何のために?」
「お前は牧師になるんや。」
「何で、牧師にならないといけないのか?」
「リバイバルのためにだ。」
当時の私にとって「りばいばる」は中島みゆきさんの歌くらいしか頭に浮かばなかったから、「『昔の歌がまた流行るようになる』ため」という意味に受け取っていたので、「りばいばる」と「牧師」の関係がわからない。
「クリスチャンでもない者が牧師にはなれないだろう。」と反発した。
「だから、教会へ行けと言っている。」
「何で、自分が牧師になるって、言うんや?」と聞いた。すると叔母はベッドの上で身体を起こして、両手を広げて、右手の人差し指を残して、四本指を折った。
「お前の兄弟(姉妹)は六人だろう。そして、上から順番に祈っていくと」と、言いながら、右手の一本残っていた人差し指で、左手の親指から順々に指さして、小指のところで止めた。
「五番目のお前のために祈っていると、『なんじわれにしたがえ』という御言葉があふれて来る。お前は牧師として召されているということだ。神様に選ばれているということだ。」と、言われた。
「なんじわれにしたがえ」の「なんじ」がどうしても「何時」という言葉に変換されて意味がわからなかった。
「よくわからんが、牧師になる気はない。意味もようわからんし。」と答えた。
「だから、とにかく、教会へいけ。」
叔母はそういうと、ガッカリした様子で、ベッドに横になった。
実際にクリスチャンに戻り、献身することになった時に、このことがどれ程私を励ましてくれることになったことか。クリスチャンでもなかった時から、献身することが定められていた。神様に選ばれていたということを実感できた。そして、それは今も不安になった時の私を支えてくれる体験となっている。
しかし、神学校の面接で、「召命の『客観的な証』は?」と尋ねられた時に、この話をしたかったが、他教団の一信徒の叔母の話など、たぶん認めてはもらえないと思い、自分の教会の牧師も認めてくれたという程度のことを答えたら、それでいいと言われた。
私は、牧師にはなった。しかし、その叔母の話に出て来る「リバイバルのために」はまだ果たせていないと思う。今はまだ可能性があるのか、不安に思いながら、伝道を続けている。
どうか皆様、このリバイバルのために、ご一緒にお祈りください。時は迫っていると思います。よろしくお願いします。



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