エデンの園の中央には二本の木が植えてありました。一本は『いのちの木』で、もう一本は『善悪の知識の木』でした。そのうちの『善悪の知識の木』の実を食べてはいけないと禁止されました。しかし、エバは蛇の誘惑されて食べてしまいます。そして、アダムにも勧めて食べたので、二人は罪に堕ちて、エデンの園を追い出されてしまいます。
その時に神様は、創世記の3:22で、「神である【主】はこう言われた。『見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。』」とあります。
なぜ、神のようになったのに、永遠に生きることを禁止したのでしょうか?
「死にたくない」というのは、みんなそうだと思います。でも、今の世の中で、ツラい思いをしていたり、誰かからイジメをうけていたり、社会的に厳しい環境にあったり、奴隷のような人生を送っているような人にとっては、もし今の世が永遠に続くとしたら、それはもう絶望以外にはないのではないでしょうか。
そんな今の世界を作ったのが、この木が与えてくれる『善悪の知識』だったのだと思います。この実の効果はすさまじく、「善い」がわかれば、ほぼ必ず「悪い」がわかります。そして、残念なのは、「善い」を選べばいいのに「悪い」を選ぶことがある。悲惨なのは「善い」と思ってやったことが、「悪い」になってしまうことです。
この木の実の問題は、『知識』しか与えてくれないことだと思います。そして、人は弱く「善いとわかっていても、悪いを選んでしまうこと」ではないでしょうか。
ノーベルはダイナマイトを発明しますが、それが戦争に使われたことに心を痛め「平和賞」を最高賞としました。アインシュタインも核兵器の使用を大統領に求め、日本に落とされた原爆の脅威にその後の生涯を平和運動に捧げます。
最後に「平和が良い事であることを知ったのもこの木のお陰」との意見もあると思います。でも、平和への道は果てしなく遠く思います。ロシアのウクライナ侵攻があるまで、世界はそれなりに平和で人類は素晴らしい理性を持っているようにも思いましたが、それは平和な日本に住んでいたからなのかも知れません。世界には不満や不平や痛みや悲しみが満ちていたのかも知れません。今は平和はいよいよ遠く、人間の理性はどこへいったのかと、不安に思います。
マタイによる福音書5:9に
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」
これは、平和を作ることが、この上なく難しいことを表している言葉だと思います。
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