信仰の大切さ

【新改訳2017】マタイの福音書
9:27 イエスがそこから進んで行くと、目の見えない二人の人が、「ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」と叫びながらついて来た。
9:28 イエスが家に入られると、その人たちがみもとに来た。イエスが、「わたしにそれができると信じるのか」と言われると、彼らは「はい、主よ」と言った。
9:29 そこでイエスは彼らの目にさわって、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われた。
9:30 すると、彼らの目が開いた。

 目の見えない人の癒しの記事が聖書の中にはいくつか出て来る。
 「あなたがたの信仰のとおりになれ」という言葉はとても重要である。イエス様が癒してくれると信じているからこそ叫び声まであげて呼び止めているのだろう。それなのにイエス様は「わたしにそれができると信じるか」と聞いている。
 「神様なら、癒してくれるだろう」とか「なんとかしてくれるだろう」とか漠然とした信仰ではないもう一歩、或いは二歩三歩進んだところの信仰を要求されている。
 「わたしに」と聞いている。ここは「神様」という一般名詞ではない「イエス様」という固有名詞でなければならない。そして、二人はイエス様を「主よ」と呼んでいるのである。
 そうした前提の後に、「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言われている。
 二人には「癒される信仰と資格と必要」があったをこと意味している。

 「信仰のとおり」というのは、とても厳しい言葉だと思う。神には全能の力がある。だから、その力を引き出すことができれば何でもしてもらえるだろう。その力を引き出すものが『信仰』である。祈りが聞かれないとしたら、「『信仰』がない」からということになる。

 気を付けなければならないことは「負の信仰」と私は呼んでいるが、恐怖や不安から生まれてくる信仰がある。「こうなったら、どうしよう」とか「ああなったら、最悪」というものだ。不安や怖れから生み出される「負の信仰」。それが、「確信」になるとそれは、「呪い」だろう。
 「大丈夫」という言葉には一定程度の力があるだろう。でも、「大丈夫」という時に大丈夫ではないことが心に浮かんでいることが多い。その一瞬、はっきりと浮かんだ不安が現実になることも多い。それらが「負の信仰」となっている。
 日本には「言霊信仰」というものがある。結婚式のアルバイトをしていた時にうるさく気を付けるように言われた。その時に、「ここまで恐怖に感じていたら、逆に誰かが間違えて一言でも『忌み語』を言えば、不幸になるな」と思った。「言霊信仰」そのものが「呪い」となるだろう。
 厄介なのは、不安になるのは一瞬でも、それを取り除くのは莫大な時間も精神力も使う。
 信仰はそのようにして鍛えられ、磨かれていく。しかし、磨きあげられた車の表面に傷がつくのはあまりにも簡単であり、いつまでも残り、消すのはとても大変なのと似ている。

 これは、「あなたの心に思い浮かんでいるとおりになれ」と言われているのと同じかも知れない。明るく、幸せな未来が思い描かれていますか?

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