
先日書いた和美叔母さんの口癖が、「神は愛なり」だった。当時の教会では「文語訳」の聖書も使っていたので、「神は愛である」という口語訳の聖書の言葉よりも定着していた。現代の「神は愛です」になった時には、私も少し抵抗がありましたが、わかりやすいと思いました。それでも、今も文語の「神は愛なり」が出てきます。
叔母は手紙を書いて来る時には、冒頭の部分に「♰神は愛なり」と書いてから、行を変えて本文を書いてくれていた。だから、私も手紙を書く時はそれに倣って、「神は愛なり」と書くようにしている。
叔母に何かを聞いて、「どうして?」「何で?」「なぜ?」が含まれる流れの時に、「神は愛なり」と答えて、おしまいになる。「???」と意味が分からない時もしばしばだったけれど何となく納得して、質問を終えていた。
今の私には、それがとても正しい答えだったのだと分かるし、私自身もそう答えることも多い。そして、クリスチャンが何かをする時の動機は「神は愛なり」なのだと思う。「主の御心を知れ」とか「主の御心に従え」とか言うけれども、「主の御心」=「主の愛」である。なぜなら、「神(主)は愛なり」。
私はキリスト教の神観の中で最大のものがこの「神は愛なり」だと思う。ここに「キリスト教の神」としていろいろな面を書いているが、その中心は「愛」であり、神様自身の「動機」も「愛」である。
そして、この「神が愛である」という神観はキリスト教を越えて、「神」と名の付くもののすべてに求められるものになっていると思う。人の作った、自分に都合のよいだけの神であっても、「愛」であることが求められる。
仏であっても「慈愛」が仏性であると言うしかない。本来仏教にとって、「愛」は「執着」「煩悩」であり、「悟りの邪魔」でしかない。しかし、人は神が愛であるからこそ、祈りや願いに応えてくれると信じている。愛が煩悩ならば、仏自身が救われてはいないことになる。
サタン・悪魔・悪霊に祈り求めれば、「代償」を求められ、生贄や血を捧げさせられるか、一生奴隷にされる。
しかし、今回解散命令が確定した「旧統一教会」などは、「愛」の代償に「多額の献金や過酷な奉仕」を求めた。悪魔の所業である。
「神の愛」と「神の義」は、時に対立的なものとして描かれるが、この「愛」と「義」の統一こそが「聖」であると思う。そして、この「愛と義を統一」させたものが、「キリストの十字架と復活」である。だから「愛」は「善」の元になると思います。
相手が優しくいい人であると「交渉」が楽である。だから、「神様、あなたは良い方だから…」とか、人にも「あなたはいい人だから…」と甘えて求める。しかし、神は「義」であり「正義」であり「正しい方」なので、わがままな祈りは聞かれにくい。それでも、そんな祈りが聞かれた時に、「神様の愛」を感じることができるかも知れません。
祈ってみる甲斐はあると思います。



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