
太田儔先生(人間国宝)の技は「籃胎蒟醤 布目彫り」である。磯井如真師の「籃胎蒟醤」の技法は磯井正美師が継承されたものだった。
しかし、太田儔師の技能の高さを認めた松田権六氏、田口善国氏らが、先生を人間国宝として認定するために、認めたものが「布目彫り」だった。
この布目彫りは細かい線彫りをして、色漆を埋めることによって、「絵画的表現」をすることができるという、これまでになかった太田先生の独自の発想によって発明された画期的な技法であった。
その最大の特徴は「鮮やかな色彩」であった。漆塗りと言えば、黒と朱という二色がほとんどだが、様々な色漆が開発されたとしても、「絵画的表現」は不可能なものだったが、太田先生によって発明された「布目彫り」によって、はじめて可能になったとも言える。
ところが、晩年、太田先生と話をしている中で、繰り返し、私に語った言葉が「『布目彫り』は未だに完成していないんだ。死ぬまでに完成させなければならない」というものだった。
私には、とても奇妙な言葉に思えた。なぜなら、太田先生は私には「布目彫りの技法」を学生時代にすでに教えてくださっていたからだ。確かにその技法は技法的な難しさは人の手の技の最高峰でなければならないことは当然ながら、その仕組みは人智を超えるほどの複雑さと精密さと科学的美術的難解さを持っている。その極みを見極める知性と技能を要するものだった。
ありがたいことに、太田先生は私に「東君はこの技法を理解できるんだ。そして、それを表現する技能を持ち合わせている」と言って、くださっていた。
それで、その技法のすべてを私に伝えてくださっていた。
太田先生は、誰にでも自分の技法を惜しみなく教えてくれる先生だった。講習会に行っても、すべてを教えているように見えた。
しかし、教えていないものも、実はあったのだ。それがこの「布目彫りの『秘技』」とも言うべきものだった。私には、何のためらいもなく教えてくれたものが、実は『秘技』であったことは、先生の晩年になって漸く知ることができた。先生はそれを私以外の誰にも伝えていなかったことを知った。
太田先生は私を弟子にしてくださった。しかし、ある時から、突然、私に作品を作ることを許してはくださらなかった。どんな理由があったのかは私にはわからない。にもかかわらず、私には、「布目彫りの心技」をすべて伝えてくださっていたのだ。
私は、それを誰にも伝えることは、決してない。この技法は先生と私だけの紐帯だから。
私はただ夢のように思う。「東君、布目彫りの作品を作ってくれ」と言うことが、太田先生が(決して口にはしなかったけれど)言いたかったことで、「布目彫りの完成」を意味しているのだと。
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