
「異言か話せるようになったら、どんないいことがあるの?」とよく質問される。ペンテコステ・カリスマと呼ばれる教団では、『異言』は当たり前のことになっているし、世界的にも今は普通のこととして受け入れられていると思うが、一部では、未だに『奇妙な』と思われているところもあると思う。
信仰生活を送っていて、不安になることは、「本当に神様はいるのか?」とか「祈りって聞かれているのか?」とか「本当に自分は救われているのか?」等々の部分だと思う。何年も信仰生活を送っていても、ふとした時に不安に襲われることがあると思う。
私も、神学生の時に周りから、「東は穢れている」とか「本当にクリスチャンなのか」とか「献身しているけれど、本当に召命を受けているのか」とか不信感をずうっと持たれていた。私が普通の信仰者とはかなり異なることは自覚していたが、これほどまでに言われると不安になる。それで、「自分は本当にここにいていいのか?」「自分はクリスチャンなのか?」という疑問を持ち、とても不安を感じて、神学校の祈祷室や礼拝堂でお祈りをした。いくら祈ってもそれらしい回答は無かった。が、祈りの中で、ハッと気が付いたことがあった。それは自分が『異言』で祈っているということだった。つまり、「自分は救われている」「自分はクリスチャンだ」「自分が体験した『召命』は事実だった」と確信がわいた。それで、周りに何を言われても、確信をもって神学校生活を送ることができた。
自分の頭に浮かぶ言葉(知恵)で祈っていても、そんなにたくさん祈れるものではない。でも、不安や怖れから、祈る言葉がほしい。そんな時に『異言』で祈るというのは、とても大きな助けとなる。
実際に『異言』が話せるようになると、神様が「自分の身の上にも奇蹟を起こしてくださった」「神様は私と共にいてくださる=『インマヌエル』というクリスマスで語られる神様の姿」という確信が与えられる。
『異言』は話している時に「自分が考えて話しているのではないし、考えても話せる言葉ではない」と感じる。「自分ではない誰か」が話させてくれていると実感できる。
そして、それは「聖書に書かれている通りのことを体験している」というものである。
信仰生活は本当にどこか手探りのようなもので、何でもいいから「一つ『しるし』」がほしいと思う。その確かな「一つの『しるし』」が、この『異言』なのである。
誰でも、イエス様を心から信じて、求めるなら与えられるのがこの『異言』である。たとえ教会へ行っていなくても。私も信じると決心して、求めた時、二か月ほどかかったが与えられた。この段階では、洗礼を受けていないので、地上の教会組織的には、クリスチャンとは認められない。でも、神様は認めてくださっている。その証明として、神様が「印」を押してくれているというのが、『しるし』であり、『異言』なのである。
誰でも信じるだけでクリスチャンにはなれる。でも、本当に救われているのか不安になる。そんな時に『異言』が与えられると、「確かに自分は救われている」と実感できる。
このブログを読んでくださっている皆様は、絶対に導かれていると信じています。ですから、「まず、イエス様を信じてほしい」と思っています。そして、「異言を求めてほしい」と思います。
信じるだけで救われますが、異言が話せるようになると確信がわくと思います。



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