キリスト教の神 神が希う愛

【新改訳2017】Ⅰコリント
13:1 たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13:2 たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。
13:3 たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、
13:6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。
13:7 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
13:8 愛は決して絶えることがありません。

13:13 こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。

 二十年ほど前に結婚式のアルバイトをした。当時はたくさんの場所でたくさんの結婚式が行われていた。コロナでそのほとんどが消えた。現在、どのくらい回復しているのかと思う。
 その結婚式の時にいつも読む聖書箇所が、「愛の章」と呼ばれる新約聖書「コリント人への手紙 第一 十三章」でした。
 ペンテコステ派の私には耳の痛い御言葉です。異言ならいくらでも話せるかも知れないけれど、いくら異言を話せても、愛がなくてもできるのです。奇蹟も起こるし、癒しも起こる。でも、愛がなくてもそれらは起こるのです。さらに、「信仰」があっても愛がないという少し信じられないようなことも事実です。
 どんなに優れた能力や卓越した技術があっても、どれ程すごい慈善活動をしても、愛がなければ何の意味も価値もないと言っているのです。
 愛は見えません。その人の中にあるのが「愛」なのか、「打算」なのかは、わからない。これがわかるのは神様だけである。
 でも、「愛を試す」ことや「愛を確認する」方法はあるようです。それが、後半の部分に書かれている。
 「愛している」と言いながら、寛容でなく、親切でもなく、人を妬み、自慢ばかりして、高慢で人を見下していて、失礼なヤツで、利己的で、イラチで、根に持ち、ズルくて、ウソばかりついて、我慢ができず、人を疑ってばかりで、ため息ついて、人の悪口ばかり言って、神をも世をも呪っている。そんなのは愛ではないし、そんな人は愛など持っていないと、パウロを通して神様は言っているのです。
 正直、ドキリとします。心当たりがあり過ぎで、本当に神様に謝るしかありません。

 「神は愛です」。でも、その愛を受け止めることができなければ、どんなに神の愛が大きくても、それは何の意味のなく、関係ないものです。
 「愛を受け止める方法」は、「『信じる』という方法」だけです。信じて、神の愛に満たされることで、すべてが変わるのです。愛は食べ物のように、何もしなくてもすぐに「飢えて」しまうものです。
 神の愛は、砂漠のように渇いて枯れた心と魂を潤して、新しい命を芽吹かせてくれます。
 祝福とお導きをお祈りしています。

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