
アメリカで『新使徒運動』みたいなものが流行っている。教会はパウロの使徒の問題で、色々と議論があった。ユダが抜けた後、マッティアという人物がくじで選ばれるが、その前にペテロが条件を出す。
「ヨハネのバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした人たちの中から、だれか一人が、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」(使徒1:22)
だから、本来はパウロは使徒ではない。しかし、パウロはダマスコの途上で復活のイエス様に会い、直接使徒として任命されたと証言する。そして、現職のどの使徒よりも大きな働きをしているので、誰もパウロが使徒でないということはできない。
この辺から考えると「パウロと同等の働きをした者」は「使徒」と呼ばれる資格があると推察できる。
パウロは自分が使徒である証をしている。
まずユダヤ人でパリサイ人であること。ダマスコ途上で復活のイエス様に会ったこと。イエス様から直接任命されていること。
新改訳2017 Ⅱコリント
11:21 言うのも恥ずかしいことですが、私たちは弱かったのです。何であれ、だれかがあえて誇るのなら、私は愚かになって言いますが、私もあえて誇りましょう。
11:22 彼らはヘブル人ですか。私もそうです。彼らはイスラエル人ですか。私もそうです。彼らはアブラハムの子孫ですか。私もそうです。
11:23 彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうです。労苦したことはずっと多く、牢に入れられたこともずっと多く、むち打たれたことははるかに多く、死に直面したこともたびたびありました。
11:24 ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、
11:25 ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 何度も旅をし、川の難、盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、町での難、荒野での難、海上の難、偽兄弟による難にあい、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さの中に裸でいたこともありました。
11:28 ほかにもいろいろなことがありますが、さらに、 日々私に重荷となっている、すべての教会への心づかいがあります。
パウロは地中海世界を回り、生涯をかけて伝道・宣教に励み、最後はコロッセオでライオンに喰われて死んだと言われています。
こういう人が「使徒」を自称していいのだと思います。
ちょっと、霊的だとか、人気があるとか、大きな教会を作っているとか、人を集めているとか、癒しや奇蹟が起こせるとか、賛美が上手いとか、顔がいいとかetc.etc.etc.…。
恥ずかしいとは思わないのでしょうか。
それは、お互いに「使徒みたい」とか「使徒的な働きですね」とか「預言者みたい」とか…褒め合ったり、励まし合ったり、慰め合ったりもするでしょうが、それらはお世辞程度の挨拶でしかない。
学生の頃に飲み屋街などを歩いていると黒服で蝶ネクタイをした愛想の良さそうなおっさんが、「先生、先生」「社長さん、社長さん」等と声をかけて来た。先輩が「先生と呼ばれるほどのバカでなし」と言って笑っていた。
これと全く同じようで、「よう、新信徒さん、新信徒さん」「よっ、預言者、預言者さん」とオダテラレテいるだけだとは考えられないのだろうか。
トランプさんも上のオネエサンに「おバカさんねぇ。」と慰められているようで、みっともない。
本気で真に受けていたり、真顔で「自分(君)は使徒だ」とか「私(あなた)は預言者です」とか言ったら、その時点で終わっているでしょう。
御言葉ではないけれど、このような状態を日本では「鳥なき里の蝙蝠」というのです。



コメント