放蕩息子②

【新改訳2017】ルカによる福音書
15:29 しかし、兄は父に答えた。『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。
15:30 それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。』

放蕩息子の話はその弟の『悔い改め』が中心のテーマのように見え、それを赦す優しい父親の姿が美しい。
しかし、この話の本当の中心テーマは、「二人を赦せない兄」の存在である。この話は、罪びとたちに「神様の福音と赦し」を語っているイエス様に対して、ねたみと腹立たしさを感じている「パリサイ人や律法学者(+祭司等の当時の権威と特権を持っている者)」に対して語られた言葉である。
とても優位な立場にいつもいて、富と名声を手にしている者たちに対して、貧乏で犯罪者や遊女になるしかなかったような人々に対して「憐れみ」を持てないことを指摘するためのものである。
不正を働かず、才能と努力と運や生まれ等で、巨万の富も名誉や名声を手にし、それで贅沢な暮らしを好きなだけしたからと言って何の咎めもないと思っているかも知れないが、『神』だけはそれを赦さない。罪びとは赦しても、「憐れみの無い者」を天国に迎えるつもりはないということを言うためのたとえ話がこの「放蕩息子」である。
うしろの部分が抜け落ちているとしたら、「教会や司祭や牧師たち」が、今「パリサイ人や律法学者や祭司たち」の立場にいるからかも知れないし、一般の社会であっても、為政者や経営者や特権階級のような上位の立場にいて、富や名誉を持っている人たちに対しても同様である。
神様が求めているのは、「『いけにえ(=)良い行い』ではなく、『憐れみ』」である。
カインに「悔い改める心」があれば、アベルを殺すことはなかった。

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