有我(⇔無我)

「有我」という言葉は、無いのかも知れませんが、私も仏教の家に生まれ育ちましたし、日本中に仏教の教えが溢れていますので、「無我」とか「無私」とかの言葉に何度も触れました。「自分を消す」ことが大切なのだと教えられて来たように思います。
それに対して、キリスト教は「有我」であると言えると思います。
英語の時間に「主語・述語・目的語」と「主語・述語・『補語』」というのを習った時に、「補語」って何? というあたりで、英語がわからなくなりました。
「I am you.」と「 I love you.」の違いが判らない。「貴様と俺とは、同期の桜…」的な。「自分と友達は一緒」みたいな感覚があった。
好きな女の子ができて、片思いになった時に、「you」が初めて、「他人」を指す、「自分とは別人」の「目的語」だということを理解した。自分とは「思い」も「考え」も違う「他人の存在」を実感した。そして、その「他人=他者」がいて初めて「愛」が成り立つのだと思った。もちろん「自分が好きな」ナルシストの人もいるかも知れないけれど、「他者」がいればこそ、「愛する人」が存在することになる。
キリスト教では、「神の存在」が大前提であり、神は「絶対他者」である。その全くの「他者」が、「自分=我」を「愛している」ということを知る。その時、自分がいなければ、愛される対象にはなれない。神の前に立つ時、神に向かい合う時、「自分」を見出し、知ることになる。
そして、自分の存在を喜ぶことができる。神様に愛されている「自分の存在」を知り、認めることができる。
神様の存在が、自分自身の存在の根拠となる。
「神在り、故に『我在り』」と、悟ることができる。

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