キリシタンは…

【新改訳2017】ヨハネの黙示録
6:9 子羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てた証しのゆえに殺された者たちのたましいが、祭壇の下にいるのを見た。
6:10 彼らは大声で叫んだ。「聖なるまことの主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者たちに私たちの血の復讐をなさらないのですか。」
6:11 すると、彼ら一人ひとりに白い衣が与えられた。そして、彼らのしもべ仲間で、彼らと同じように殺されようとしている兄弟たちの数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいるように言い渡された。

黙示録には、神の裁きの様子が描かれている。そこには、「七つの封印」、「七つのラッパ」、「七つの鉢」の順にドンドンと激しく、厳しいものになり、地上は何度もその「大災害」とも言える悲惨な状態が続く。
神様が人間を創ったのは、滅ぼすためではない。正しく、優しく、親切に生きた者たちの「正義と名誉」を守るために行われる裁きである。
人の主張する「正義」は個人よって、国によって違う。だから、神様にも神様の正義がある。
それは、「不当に」「理不尽に」「一方的に」「自分勝手に」等など色々な理由で、不利益を被ったり、追いやられたり、イジメられたり、殺されたり(死を選ばされたことも含む)した人たちの「無念」を誰が、晴らしてくれるのか、と言えば、神様しかいない。

「クリスチャンでなければ救われない」という気はない。クリスチャンでも、正しく生きていない人や、「キリストの名」で戦争をして、「無垢な」人々を惨殺した者が救われることはなく、ゴッドファーザーだから、神様の祝福が特別にあるわけでもない。ひとりひとりが神様の前に立って、自分の生涯を一つ一つ裁かれる。神様の法廷には時効はないし、全ての証拠も隠すこともできず、ウソも通用しない。時間は永遠にあるし、死ぬこともないので、素通りすることもない。ついでに、神様はとても細かい性格の上、「罪に大小はない」と言う。

神の裁判は、裁判官は父なる神様で、弁護士はイエス様。検察官は「サタン」なのです。サタンは私たちを「そそのかし」「試み」「追い詰めて」、私たちに罪を犯させて(まるでおとり捜査)、その罪を明らかにする。証人と裁判員は天使と悪霊たちで、悪霊は私たちに不利なことばかりを言う。
被告は「人間」で、「自分は神だ」と言った人は、いの一番に裁かれる。被告が「自分は裁判官だ」と言っても、失笑を買うだけだろう。
クリスチャンはこの弁護士のイエス様とお友達です。

私たちは、すべてこの裁判の被告とされる。その時に、自分の正しさを証明できなければ、サタンと共にゲヘナへと送られる。これは、サタン自身の裁きでもあるからである。
神様は自分が創り、愛した者たちを裁き、ゲヘナへ送れるのかと、サタンは詰め寄っているのです。
自分も神様に創られ、愛されて来たのに、裁かれたことを不服とし、人間を人質として、神様の裁きは間違いだと、訴え続けている。
そうした中で、「不当に殺された者たち」が叫んでいる。その中に、「キリシタン」もいる。

「キリスト教を信じている」という理由で、あまりに過酷で、悲惨すぎる『拷問』にかけ「転ばせ」、転ばなければ、殺す、ということは、どんな時代、国家であったとしても、決して許されることではない。

因みに、この彫刻を造られた『舟越保武』先生のアトリエで、手ずから淹れてくださったコーヒーを頂戴したことは、私の生涯の尊い想い出です。

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