
「博士ちゃん」で「サグダラ・ファミリア」の特集番組をしていた。私も昔美術教師をしていたが人生がいやになって辞め、クリスチャンとなって、牧師として召された。学生の頃から、アントニオ・ガウディは好きだたので、サグタラ・ファミリアにもずうっと興味を持っていた。
でも、プロテスタントの牧師として、ペンテコステ派の牧師として、言わなければならないと思うことがある。それは、「教会は建物ではない」ということと、「教会とは『主イエス・キリストを信じる者の集まり』である」と。
例えばプリンがある。お店でプラスチックのケースに入って美しいでデザインで包装をされていて、買うときには「プリンを買う」と言って、それを手に取るだろう。しかし、家に帰り、食べるときには、密閉してある蓋をはがし、中身をお皿の上に取り出して食べるだろう。その時、お皿の上に載っているのが、「プリン」であり、蓋もケースもゴミとして処分される。誰も蓋とケースをもはや「プリン」とは呼ばない。そのケースをどんなに美しくデザインしても、趣向をこらして、素晴らしい機能を付け加えたとしても、蓋とケースはゴミ箱へ捨てられることになる。
放送の中で、「ガウディの天使には『羽』がない。聖書に書かれていなかったから」という話があった。しかし、そこに作られているもののほとんどが聖書には書かれていないものばかりではないだろうか。キリストの顔も姿も、マリアもヨセフも、弟子も天使もその姿は何一つ記されていない。聖書に登場する人物の容姿を誰も知らない。
教会で最も避けなければならないものは、旧約聖書から新約聖書までのすべてで指摘されているのは、「偶像礼拝」である。何一つ神にとして「像」を作ることを禁じている。
イスラム教徒がキリスト教を偶像礼拝者の集まりとみなしているのも仕方のないことに思われる。
さらに、マリアは神でもなければ、特別な存在でもない。確かに、マリアは信仰深い人だった。しかし、マリアが人々を救うのではない。
最後に外尾さんと愛菜ちゃんのトークシーンがあった。外尾さんの雰囲気が船越保武先生によく似ていた。カトリックの彫刻家は同じような雰囲気になるのだろうかと驚いた。穏やかで知的で、信念に満ちて、優しく、示唆的であり、立派な人物であることが一目でわかるような人たちだ。
番組全体を通してのテーマに「ガウディはなぜ完成しない教会を建てたのか」という問題があった。
私の答えは、「彼は教会は建てていない。教会を入れるケースを作ろうとしていた。クリスチャンがいる限り、教会を入れるケースは様々に作り続けられるだろうから、キリストの再臨の日まで、その作業は続くことになるだろう」というところだろうか。
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