
私が学生の頃は、女の子は「『愛されたい』と思っている」という言い方は普通だった。ほぼすべてのことが「受け身形」で表現されていた。「抱かれたい」「キスされたい」「セックスされたい」「結婚してもらいたい」「恋人にしてほしい」「好かれたい」、そして「愛されたい」ものなのだと言われた。(この考え方が、痴漢の言い訳の一つになっているようにも思う。「女は触られたい」と思っていると)
女性は男性から「○○されたい」と「思われたい」というものなんだ、だから男性の私は「愛さなければならない」というように、誰彼となく、言葉の時もあれば、無言の時もありながら、プレッシャーをかけられていたと思う。
でも、実際は男だって「愛されたい」というのは、当たり前の気持ちだった。
なぜ、女性は「受動態」で、男性は「能動態」なのだろうかと、英語で習った文法用語を使って悩んでみたりした。でも、これらも「男性上位」の考え方の一面だったのだろうと思った。
最近のアニメの題名で、「かぐや様は告らせたい」というのがあって、不思議に思った。昔なら、「かぐや様は告られたい」だっただろう。でも、それ以前に今でも「かぐや様告りたい」ではないのかと思った。今でも、若い人たちの間でも、女性は未だに「受動態」なのだろうか?、と考えてしまった。
「好きなら好きと言えばいい」と、若いころに言われた。そのお陰で何度もフラれた。当然、告白する時には、全身全霊が熱くなるほどのプレッシャーがかかる。妻に告白した時にも、30を過ぎていたが、震えるほどの緊張をして、告白した。
勿論、告白されたこともあった。私は、それは当然に嬉しかった。でも、女性から告白されたことが「何か悪いこと」だなんて思ったことはない。
聖書では、「互いに愛し合いなさい」と言われている。これは恋愛のお奨めではないが、「互いに愛され合いなさい」と言っているのではない。もし、みんなが「愛されたい」と思っていたら、愛の取り合いになって、「愛の真空地帯」になってしまう。
だから、女性も(男性も)「愛されたい」ではなく、「愛したい」でもなく、「愛している」と思えるというのは、素晴らしいことだと思う。
これも昔よく聞いた言葉だが、「女は弱し、されど母は強し」というのは、「愛されたい」と思っていた女性が、子どもを「愛している」ことによって、「能動的」「積極的」になるからだったのだと思う。ちなみに、男よりも父の方が同様に強くなれると思う。
誰かを「愛する」ことで、人は強くなれると思います。「愛されたい」ではなく、「愛している」と認めて、人を愛している自分をほめてあげてほしい。
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