異言

 死の体験をした後の2月12日の建国記念日の翌日というか、日を越えた2時か3時頃だったと思うが、目が覚めた。口の中でベロが勝手に動いているのに気が付いた。「おかしくなったのかな」と思ったが、止めようとすると止まるが気を抜くと、また動きだす。それで、口から息を吐くと、それに合わせて、舌が「ヘロヘロ」と動く。不思議なものだと思ったが、「もしかするとこれが『異言』の前兆なのか?」と思い、気を取り直して、自由に動かしてみた。するとやはり「ヘロヘロ」と動く。そして、息だけではなく、音を出してみようと思い、無声音ではなく、有声音にしてみると、なんと「言葉」のようになった。何語かはわからないけれど、何かしゃべっているのである。
 一緒に隣で寝ている者がいたので、できるだけ静かに声に出した。そうすると段々と明確な「言語」のように思えた。そして、「これは『異言』だ」と思ったが、確信がない。そして、今寝てしまったら、消えてしまうかも知れないと思い、翌朝の早天祈祷まで起きて、話し続けることにして、時間が来た時に、集会室に行き、先に来ていた村上先生に向かって、いきなり大きな声でしゃべってみた。
 村上先生は驚いた顔した。
 「先生、これは異言ですか?」と、聞くと、「ああ、異言だよ。おめでとう」と、少しあきれ顔で応えてくださった。
 それで、早天祈祷の間ずうっと、異言で祈り倒した。
 早天祈祷が終わった後、散歩がてら、宇部の街を歩き回って、夕方まで異言で祈り続けた。そうすると、色々な異言に変わった。何語が全くわからなかったが、いろんな国の言葉のようだった。そのうちに、とても人間の言語とは思えないものまで出てきた。しかし、その響きは美しく、まさに「天上の響き」と言えるような感じに思えた。
 パウロが言っていた「御使いの異言」だったのだと後で思った。
 夕食を村上先生宅で頂いていたが、その時に、「今日は東君は静かだね」と言われた。「異言を話過ぎて、口がだるくて動きません」というと、笑われた。一週間後くらいに、「この一週間で、東君は私よりも多くの異言を話すよになったね。」と言われた。とても嬉しかった。
 異言は、ペンテコステやカリスマ系の教会では当たり前のことで、聖霊(のバプテスマ)を受けると話せるようになる。
 クリスチャンになって、現実的に体験することができ、神様の存在を身をもって知ることのできるものである。神様の存在をありありと感じることができる体験であり、一度だけではなく、私は今も話し続けている。
 「ことばは神であった」という、ヨハネの福音書の御言葉が実感できた。
 皆様も、イエス様を信じて、聖霊を受けて、異言が話せることを信じて、話してみてください。誰に文句を言われても、神様の存在を体験し、確信できます。

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