
女性差別の問題は根深く、難しいというのは、今日のこの朝日新聞の「天声人語」を読んで、改めて考えさせられた。
このブログで、天声人語をよく取り上げることを、心苦しく思いますが、やっぱり面白いことが書いてあるし、何だか最近は随分と精力的で、アジテーターな記事が多いようにも思う。新聞は元来ニュースを伝えるものだと思うけれど、どの新聞にも特徴がある。読売は保守的だし、毎日も保守寄りで、以前はもっと革新的で骨太なイメージだったけど。そして、朝日は左よりと言われるけれど、私の感想としては、「知的で理性的」というイメージである。ちょっと朝日寄りかも知れない。
しかし、果たして、土俵に女性が上がるということは「女性差別」なのかということから考えた方がいいと思う。男女を区別することは一定程度必要だろう。お風呂やトイレは男女別だから。だから土俵もお風呂やトイレのような感じで、男女区別をした方がいいのか、と考えてみてもいいと思う。
男子用の国技館があるように、女性用の国技館があれば、何の問題もないのかも知れない。でも、よく考えてみると、女性アイドルの国技館でのライブもあるみたいだから、国技館自体に女性が入ることが問題なのではないと思う。当然、相撲の女性ファンもいるわけだから。
要は、「土俵」という土の上に女性が入ることがいいか悪いかという話なのだろう。
オリンピックのもとになったのは、オリンピアでの競技大会だったらしいが、それは、男だけの素っ裸の競技大会だったと聞く。女性は応援にも入れなかったらしい。今の相撲のイメージに近いのは、このオリンピアの競技大会だと思われる。
ならば、女性をなしにして、テレビ中継もやめて、男だけでやればいいと思う。それなら、問題はかなり軽減されるのではないだろうか。
でも、女性に見せるとか、女性に見せたいとか、女性に見られたいとか、というのであれば、その時点で、神聖さを主張するのはやめた方がいい。女性は穢れていると言うのであれば。
女性相撲というものもある。それで胸を隠さないでやるとしたら、一発アウトだと思うけれど、もし女性だけで、放送もせず、男性観客も入れなければ、胸を隠す必要はない。それこそ、全裸でも何も問題がないだろう。
もし、男女を区別しているのだとしたら、女性用の土俵を作ればいいと思う。お風呂やトイレのように。その場合は、女性相撲を国技館でやって、女性専用の土俵を作ればいいのではないだろうか。
最大の問題は、「伝統という名の女性差別の容認」である。当然古い時代は差別だらけだったのだから、伝統を笠に着て「差別」容認するのは、絶対に許されるべきことではないと思う。
テレビの時代劇などを見ていると、「時代背景」とか、「製作者の意図」とかを理由に、「そのまま」放送している。差別的で、悲惨だったことを伝えるためならば必要かも知れないけれど、それが「教育的」作用を持つのなら、放送すべきではない。「伝統を守る」と言っているだけでは、「差別を守る」と言っているのと変わりがない。
恩師の人間国宝の太田先生は、伝統工芸の無形文化財保持者だったけれど、私に、「東君、『伝統』というのはね、古いものを守るだけじゃダメなんだ。伝統というのはね、常に新しく発展し続けて行かなければならないんだ。ただの古いものはね、どうしたって、消えて無くなって行くんだ。本当に残る伝統とは、新しい時代に即応して、形、姿を変えていくことができる「変わることのない『真の精神』」そのものなんだよ。時代に合わなければ、ただの『時代遅れ』だね。」と常々教えてくれていた。
相撲の「真の精神」とは、何なのでしょうか?


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