
人生の中には、何度かあの時もしかしたら死んでいたかも知れないと思うようなことがあるように思う。今とりあえず生きているから、大丈夫だったのだと思うけれど、一歩間違えばと思うとゾッとすることがある。
子どもの頃、私の故郷は瀬戸内海の近くで、海まで歩い2、3分で行けるところだったので、日曜日は毎週のように魚釣りをしていた時期もあった。だから、海で遊ぶのはとても身近なものだった。小学校の五、六年の頃だったと思うけれど、友達と浮桟橋の横に並んでいた、はまちの生けすの上で遊んでいた時に、横づけしてあった船に縁に手をかけていた友達がいたが、船というものは錨をしてあっても浮いているので、小さな力でも動く。最初はほとんどわからない程度だったが、徐々に離れて行き、気が付いた時には、友達の身体は万歳をしたような格好になって、まっすぐピンと張るようになった、と思った次の瞬間に海に落ちた。周りに他の友達も何人かいたので、無事に引き上げることができたが、生けすではなく、桟橋だと捕まるところもないので、上がってくるのは至難の業となる。
夏休みに、桟橋に遊びに行った時に、大人たちが何人も集まって騒いでいるのが聞こえた。近づくと、子どもが海に落ちたということで、ダイバーが何人か潜っているとか。しばらくすると、黄色い服を着た子どもが引き上げられた。今も目に焼き付いているが、すでに息はなかったようだった。夏休みで都会から、実家に帰って来ていて、海が珍しくて面白かったのだろうけれど、落ちてしまった。地元の子どもは海の怖さを小さい時から、色々と体験したり、大人たちから教えられる。夏休みに帰省して、海や川や池で遊んで、事故に遭うことは時々ある。とても危険で、怖ろしい。
そんなことを体験する前の三、四年生の頃だったと思うけれど、海岸に行くと、畳が浮いていた。あつらえたように傍に竹竿まで浮いていた。まだ、水が浅かったので、砂地から畳に乗ってみると、浮いたままだった。それで、面白くなって、竹竿で海底を押すと畳が進んだ。面白くてしばらく夢中になっていると、気が付けば、潮が満ちて来ていた。竿が海底に届かなくなって、気が付いた。
恐怖を感じて、畳の上で竿を振って、何とか海岸に近づけばと思ったが、どうにもならなかった。このまま、沖へ流されたらと考えると恐ろしくて、泣きたくなった。
ところが不思議なことに、なぜか波が海岸に流してくれて、どうにか岸に上がることができた。
年を取ると、こんなことを色々と思い出す。そして、その時も怖かったけれど、年を取ると怖さがひとしお強くなるみたいだ。
生きているということだけでも、奇蹟だと思える。
思い起こせば、あの時は神様が助けてくださったのだなぁと思うことがたくさんある。そう思うと、毎日奇蹟の中を人は生きているのだと思う。教会の神様は「インマヌエルの神様」と言われている。「神様が私たちと共におられる」という意味だ。いつも傍にいてもらわないと、生きていくことさえ不可能に思える。年を取るほどにその思いが強くなっていくように思う。
皆様の安全と祝福をお祈りします。


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