
石破首相がクリスチャンだというので、こんな記事が朝日新聞に載っていた。筆者自身「クリスマスケーキを食べて翌週に初詣へ行く私に、節操がないと首相を責める資格はない」と言いながら、責めているとしか思えない。麻生さんが首相だった時にもこんな記事が載っていたのだろうか。
何人かの牧師らしい人たちの意見や聖書の言葉まで使って、権威付けをしながら、石破首相の「胸の内は」と問う。
石破さんが、クリスチャンで、靖国神社へ行こうが、伊勢神宮に行こうが、良いのではないでしょうか。神道や仏教や英霊を敬う日本人は多い。その人たちが「もし傷つく(文中の言葉を使う)」なら、参拝してあげればよいのではないでしょうか。
明治憲法下で、「信教の自由」をうたいながら、キリスト教や創価学会や天理教など様々な宗教や共産主義のような思想を弾圧し、拷問にかけて来たこの国の歴史を思い起こせば、現代でも、特定の信仰や思想を持つことさえ、躊躇してしまうのが現状だと思う。
「神社への参拝は宗教行為ではない」と、うそぶいては、国家神道を強制して来た。
「女の敵は女」というブログを載せたけれど、「クリスチャンの敵もまたクリスチャンである」。だから、いいではありませんか、何をしようと、クリスチャンであることでなくなることはないと割り切ればいい。パウロはそういう人たちのことを「信仰の弱い人たち」と言っている。キリスト教会では「信仰の弱い人たち」にばかり気を遣って、「もっと信仰を強く持て」と言わなかったことは片手落ちでしかない。実際は「何を食べてもいい」と言っているのに、「肉やぶどう酒を飲むな」ということばかりが強調されてきたように見える。
まして、「意に沿わないことをやらせるのが平気な人たち」に逆らってみたところで、不毛な争いしか出てこない。
それ以上に、朝日新聞がこんな記事を載せるのかと驚いた。「公人」の首相の信仰のあり方を問題視し、首相の「胸の内=心の中」までのぞき込もうとしているかのような。はてさて何を期待しているのかと、勘ぐりたくなる。
石破首相が「自分はクリスチャンなのだ」というのなら、クリスチャンなのだろう。その信仰のあり方がほかのクリスチャンのあり方と違うように見えたとしても、本来私たちには裁くことはできない。
カトリックとプロテスタントでも違うし、プロテスタント同士でも違う。信仰のあり方も個人で違う。誤解を恐れないで言えば、それが例え「公人」であっても、個人の信仰の持ち方はそれぞれで異なるだろう。クリスチャンの首相が期待外れのこともあるだろう。でも、結局は自分がどういう信仰を持つかが大切であり、何を正しいキリスト教信仰であり、誰が本物のクリスチャンであると「裁ける」のは、イエス様ただお一人である。
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