
新改訳2017 マタイによる福音書
5:6 義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるからです。
「『義』とは何ぞや?」と考えるところから始まるのでしょう。
学生の頃、先輩たちがよく言っていたのは、「この国に一番足りないのは『正義』だ。もしかしたら無いかも知れない。『勝てば官軍』ということばかり言っているようでは、正義など、成り立たない。どんな悪い者でも、人をたくさん殺して勝てば『正義』なんてことはない」と。
あれから何十年も経ったけれど、少しは良くなったのだろうか。
国会は「過半数」にこだわっているが、現在少数与党ということもあって、誰も勝てないので、官軍にはなれない。しかし、合わせ技で一本を取れば官軍に返り咲きできるのかも知れない。
しかし、正義は多数を占めたからと言って証明にはならない。
昨晩、ノーベル賞を取った坂口志文氏がテレビに出ていた。これからの日本に必要なものは?、という質問に対して、「科学的で論理的な思考」と応えておられた。
まず、「環境問題を詐欺だ」と言ったトランプさんに教えてあげたいと思ったが、わが日本も考えなければならないだろう。
科学者には科学者としての「倫理観」が求められる。原爆を作り出した科学者の倫理観が問われる。
「マッド・サイエンティスト(狂気の科学者?)」とならないこと。「できるからやる」とか「やりたい」からやるは通用しないし、「自分の得になる」からもダメだろう。その数が増して、「過半数が喜ぶ」からも無茶だろう。
プーチンの正義、トランプさんの正義、金正恩の正義、ヒットラーの正義、裕仁の正義、ムッソリーニの正義、スターリンの正義等々。どれも正義ではないだろう。
「正義とは」、そして、「義」とは何か?
神の天地創造の経緯を考えてほしい。神様はエデンの園に人を創り、「平和で幸せな世界」を望まれた。しかし、人は「善悪の知識の木の実」を食べて、「良いの、悪いの」と争うようになり、カインは殺人者となった。善悪の知識は人との争いを生み、人殺しを正しいと思わせる。今もその毒にあてられたままだ。
「良いの、悪いの」と争うものは正義ではない。正義とか、そして神の義とは、それを超えた次元のものであろう。それは「愛」と共に成立する価値観で、きっと「聖」と呼ばれるものだろう。
つまり、「義」とは「愛」と一体となって、「聖」となる。「聖」なるお方は神ご自身だけだ。
キリストの義を求める者は、神様ご自身によって満たしてくださるという宣言だろう。
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