ことばの神

【新改訳2017】ヨハネによる福音書
1:1 初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
創世記
1:1 はじめに神が天と地を創造された。
1:2 地は茫漠として何もなく、闇が大水の面の上にあり、神の霊がその水の面を動いていた。
1:3 神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。

 ヨハネによる福音書はとても霊的であり且つ知的である。神と神の御言葉の深淵に触れることのできる素晴らしい書物であると言える。それ故に、それはなかなかに理解しがたく、腑に落ちるという感じが少ないかも知れないし、しばしば誤解を生ずるものでもある。しかし、何度も何度も読んでいくうちに、そして、日々の生活の中でこまごまとした些事の中に、ふとした瞬間に神様との絆を感知し、時に立ち止まって、神様に感謝を献げ、喜びに包まれ、主の素晴らしさを褒め称えることになる。
 このヨハネは、「ヨハネの手紙」も書いた筆者であり、その中で最も素晴らしい御言葉の一つは「神は愛なり」であると思う。ヨハネの福音書を読む時の前提であり、聖書を読む時の前提である。
 神様が天と地を創造し、人間を創造したのは、神が愛であったからである、と理解することができる時それは、すべての出来事の前提となり、私たち一人一人の前提である。
 しかし、現実世界は「愛のない世界」であると感じる人も場合も多いだろう。しかし、「世界はどこであっても愛に満ちていなければならない」という大前提を基にして、考えなければならない。そして、愛が感じられないとしたなら、それは間違いである。
 そうした世界は糺されなければならない。その究極が最後の審判となる。
 神様は人に、「愛に満ちた世界」を造るように求めた。しかし、人は我先に得を求め、我欲に満ちた狂気の世界を造った。いずれ行き詰ることだろう。

 ヨハネの福音書には、「ことばは神であった」とある。
 日本では、「呪言」「真言」「言霊」などと言い、言葉の持つ力を尊ぶ。しかし、その原点はこのヨハネの福音書だろう。そして、このヨハネの福音書の元は、創世記である。創世記の2節3節には、「神の霊」と「神」と「光あれ」の三つが登場する。。神の霊は「聖霊様」であり、神は「父なる神」であり、「光あれ」と発せられた言葉が「御子=イエス・キリスト」である。
 ヨハネはそれに気が付いた。そして、言葉が力を持っているのは、この言葉によって天地が創造されたからであることは明らかである。
 イエス・キリストこそが、「呪言」であり、「真言」であり、「言霊」そのものである。クリスチャンの人は「呪言」というと抵抗があると思うけれど、イチジクの木を枯らしたことを思い出してほしい。
「初めにことばがあった」ということから、出て来たものか、「初めにイメージがあった」というのを聞いたように思うが、だったら、その前に「『初め』の前に神があった」と言わなければならない。
 『初め』を創ったのも神様であり、『時の流れ』はそうして生まれた。神様は時の流れに縛られない。
 新しい年を迎え、神様はたくさんの祝福の言葉を私たち一人一人に与えてくださっています。それを祝福として、信じて、マリアが言ったように、「どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」と受け止めてほしい。自分の願望や悪魔のことばに耳を貸さないでほしい。

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