
今、中之島美術館にフェルメールの「真珠の耳飾りの少女」が来ている。朝日新聞も協賛しているらしく、アンケートのメールが入った。
もう、この絵画の展覧会は何度もあって、とても人気が出て、たくさん宣伝している。が、一度も展覧会に行ったことがない。体調を崩しているのもあって、出かけることができない。
それと、以前にモナリザを見に行った時に、遠く離れた場所から、後ろの人に押されながら、数秒しか見られなかった、その悪夢がトラウマになっていて、人気のある作品を見に、美術館に行きたいとはあまり思わなくなった。それよりは、NHKの特集でもしてくれて、高画質のカメラで細部に至るまで、そして、歴史や背景などをこれでもかと言わんばかりの解説してくれるものの方が良く見えて、良く知ることができる。そちらへの期待の方が大きい。
良く「百聞は一見に如かず」ということを言うけれど、その「一見」がいかに当てにならないものかということを何度も思い知らされて来た。むしろ、人は「見たいものを見る」とか「見たいように見る」ということの方が本当に思える。
今回のこの絵画を検索しようとした時のワードは「青い髪飾りの少女」だった。真珠をしてるなんて思いもしなかった。自分の「見た」と「理解」の間のギャップに、今更ながら驚いた。
美術は「見た目」を最重要視するし、「ものの表面の光の反射」が最大の表現の基になる。しかし、絵画はそればかりを描いているわけではない。むしろ「見えないもの」「見えないところ」を描いている。それが、写真とは違う「絵画」の絵画たる所以だと思う。
人間は写真のように絵を描くわけではないし、たぶん描けない。「スーパーリアリズム」などが出て、写真以上に鮮明になんて時代もあったけれど、それはそこに「何も無い」ことを表現したかったと聞く。リアルであればあるほど、作者の存在はいらない。まるでAIが描いたかのような。
AIに意志はない。利用者が「欲するもの」を表現してくれる。たぶん「世界一の忖度マニア」だと思う。だから、怖い。忖度する人の顔色を覗うようになったら、ただの操り人形になるというのは時の為政者の惨めな末路だろう。
お話を戻して、絵画は見えないものを描くというのは、絵画の勉強に例えば「解剖学」がある。解剖学によって、人間の体の構造を知り、骨や筋肉などを理解することで表面に出てきているものを理解することになるが、描かれているのはむしろ体の中身であるということになる。同様に表情や仕種を描くことで、心理描写などする。それによって、心の中を描こうとしている。
この少女の絵にしても、この少女が誰なのかが気になる。フェルメールの娘なのか、使用人として雇われた娘なのか、モデルとしてだけ雇われたのか、或いは空想の人物なのか、等々。
その想像力を刺激するものが、素晴らしい絵ということになるのだろう。
実際に存在しているアイドルにしても、その子の出自やこれまでの経緯を知らされていて、それ以上に「想像を逞しく」しているのがファンなのだと思う。
真珠は当時とても高価なものだったと思う。しかもこの巨大なサイズはありえない。その割に、髪のバンダナも服装もそんなに豪華には見えない。そのギャップが少し不自然にさえ思わせる。どうして、眉毛がないのだろうか。お化粧はしているのか。等々。
そして、この娘は「誰だろう」「何者だろう」となるのではないだろうか。
芸術家はその見えないものを描く。
絵を描くというのは、その見えないところまで、理解して、自分なりに納得していないと描けないのかも知れない。人物の顔を描きながら頭の後ろ側が気になる。肩を描きながら、足元が気になる。目を描きながら、今日の気分は大丈夫なのかが気になる。
美術を学び、美術を教えていたけれど、「自分が何を描きたい(表現したい)のか」が一番の問題だったように思う。そして、それは得てして、見えないものであることが多い。



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