山上の垂訓⑥

【新改訳2017】マタイの福音書
5:8 心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るからです。

 「きよい心」というと『清心』という字が頭のに浮かぶ。そういう名前のミッション系の学校などもたくさんあるように思い出す。キリスト教的に憧れるものがこの「きよい心」なのだろう。
 それは、ご褒美付きで、「神を見る」ことができるからだろう。

 でも、この「神を見る」というのは、「肉の目」で見るという意味ではないと思う。目の見えない人でも、神を見ることはできる。これは「心の目」で見るという意味だと思う。
 選民のユダヤ人もホレブ山で十戒をもらう時に神は姿を見せてはいない。モーセも神の後ろ姿しか見せてはもらえていない。肉体の目は穢れていて、神を見ることはできないからなのだと思われる。
 しかし、「心の目」であるなら、「神を見る」ことができる。それこそ、「きよい心の目」なら、「神を見る」のだろう。

 アダムとエバは罪を犯した後も、神と顔と顔を合わせて話をしている。まだ、神を見ることができるほど「きよかった」のだろう。しかし、しばらくすると神を見ることができなくなった。創世記4:26に「そのころ、人々は主の名を呼ぶことを始めた。」とある。子どもが親が見えなくなり、いないと思って、「ママ、パパ」と呼ぶのと似ている。

 この山上の垂訓と呼ばれている箇所で、特徴的なのは、「心」「精神」「霊性」という人の内面に関する言及が多いということだと思う。そして、それはキリスト教の本質なのだろう。
 「信仰」とは、精神の問題である。外面的な『美』でも、身体的な『能力』でもない。人の内面であり、人格そのものである。神が『偽善』を嫌うのは、「行為」ではなく、「精神性」を見ているからだろう。
 そして、それは、死んで神の前に立った時に持っている唯一のものである。神はそれを見て『審判』を与える。
 その時、持っていたいのがこの「きよい心」である。この心を持っていれば、神の前に立って、堂々と「神を見る」ことができるということなのだと思う。
 

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