最後のエバ=マリア

Ⅰコリント人への手紙に、以下の言葉があります。
15:45 こう書かれています。「最初の人アダムは生きるものとなった。」しかし、最後のアダムはいのちを与える御霊となりました。
「最後のアダム」はイエス様のことを指しています。ここにはアダムのことしか書かれていません。アダムを誘惑したのはエバだと言って、女性を蔑みます。ならば、イエス様を生んだのはマリアだと言って、大いに女性(マリアだけでなく、女性全部)を敬うべきです。カトリックのように「マリアを『ほぼ女神』にする」のは「マリアだけを特別視して、女性全体を解放しないため」に見える。
そもそも、エバに「誘惑された」と言う方がどうかしている。アダムが言うように「食べると死ぬ」と言われたから食べなかったら、蛇に「死なない」と騙された(本来、誘惑ではない)ので、食べたら、肉体的には死ななかったから、アダムには「与えた」のです。そうしたら、アダムは食べたのです。

エバは、「詐欺」に騙された被害者です。それが「ロマンス詐欺」であったとしても、被害者です。エバ=女性は「【蛇】に【騙された】」被害者であり、「【男】を【誘惑した】」加害者ではない。

被害者に塩を塗るようなことをして来た、弟子たちも、教会も悔い改めるべきです。神様は、アダムには「『食べてはならない』と【わたしが】命じておいた」のに食べた、と厳しく叱っています。悪いのはどこまでいってもアダム=男です。
「女に誘惑された」などと言って、女の責任にしていること自体が、見苦しい。
そして、今でもそんなことを言っている者がいるとしたら、その人たちこそ、十字架に架けられたイエス様を見て逃げた男たちと同じです。腰抜けの弱虫が、女に対して威張っているようで情けない。

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