音楽と私⑥-② いつくしみふかき

 音楽がわからないというのは、本当に残念なことだったと思う。再び教会に行くようになった時、礼拝や祈祷会などの度に「賛美」をする。聖歌や讃美歌やショートコーラス等々。いっぱい歌を歌わなくてはならない。歌が苦手な私に気を遣ってくださったものか、「教会では歌を歌うのではなくて、『賛美をする』」というのだと、説明をしてもらった。だから、「うまくなくても神様は素晴らしい方だと思ってほめたたえればいい」と教えてもらった。それで、確かに抵抗感が少し減って、あまり気にしないで賛美をすることができるようになった。
 そして、「いつくしみふかき」という賛美をした時に、どこかで聞いたことがあるように思った。何度かこの賛美をした時に「星の世界」とそっくりのように思った。でも、自分にはそれが同じだと言える自信がないので、気のせいくらいに思っていたが、どうにもよく似ている。それで、思った。「なんだ、教会の賛美も小学校の歌をまねて作っているのだろう。教会が音楽の教科書からパクったのだろう。」と。
 しかし、しばらくして教会の中で聞いたのは、日本に西洋音楽のようなものはなかったから、それを学ぶために、教会の讃美歌などの中からいくつかもらって、歌詞を替えて教科書に載せたということだった。真逆だった。
 教育学部に行きながら、音楽の学生との付き合いもありながら、全然知らなかった。
 「シャボン玉」の歌も、「主われを愛す」から作られたものだとか。「We shall overcome.」も教会から出て来たとか。プレスリーたちも教会の聖歌隊だったとか。
 西洋音楽の基になったものは、教会音楽だったのだと理解した。当然と言えば当然のことだろう。日本の音楽にも、教会から多大の恩恵を被っていたのだと思った。

 「和魂洋才」という言葉がある。「和魂」は「やまとだましい」だろう。「洋才」は「西洋技術」を指す。江戸時代後期から明治維新にかけて、西洋の革新的で斬新な技術が流れ込んで来た。その時に「技術だけは取り入れても、西洋の精神『=キリスト教』は排除しなければならない」的なことだったのだと思う。「換骨奪胎」と言えば聞こえは良いが、パクリであり、人形だけ作って、魂をいれていないのと同じだろう。
 賛美に思いをはせると、「アメージング・グレース」という讃美歌がある。元奴隷商人だった人物が、神の救いを受け、牧師となった。その人物がその恵の素晴らしさを讃美歌にしたと聞いた。歌詞とメロディーが一体になっていると感じる。
 メロディーだけでは意味がわかない。でも、讃美歌として作られたものは、歌詞とメロディーは一つのものだと思う。そこに「込められた思い」こそが「魂」だと思う。それを別々にして、使うというのであれば、「最大限の敬意」が払われるべきだと思う。

 「星の世界」の歌詞も素敵だと思う。星空を眺めながら、「いつくしみふかき」の賛美に思いをはせるのは楽しい。「シャボン玉」の歌も野口雨情さんがなくした子どもへの思いを込めたものだと聞いた。「主われを愛す」は日曜学校でよく歌われる子ども向けの賛美だろう。「御国の門(かど)を 開きてわれを 招(まね)き給えり 勇(いさ)みて昇らん」の歌詞に重ねて天国へ昇った娘さんを思ったのだと感じる。
 キリスト教の信仰は「宗教」でも「教理」でも「哲学」でも「神学」でもない。ひとりひとりのクリスチャンの思いであり、希いであり、祈りである。それらを「洋魂」として排除して来たとしたら、それは「恩に仇を返す」という「和魂」としては最も忌むべきことになるのではないだろうか。
 

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